久住女中本舗

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2009年 10月 15日

なんてことない日々之雑記vol.240

道玄斎です、こんばんは。
先ほど、麒麟麦酒を呑んでしまった為(そういや、最近あまり日本酒を呑んでいない)、結構既にして出来上がっているんですけれども、今日もまだ、あまりノベルゲームを猛烈にプレイしたい意欲が湧かない為、日々之雑記でお茶を濁します。



■本屋さんとSF小説

毎日顔を付き合わせていると食傷気味になるけれども、時折無性に逢いたくなる人物というのがいて、私の場合、それはS.P.ミーク大尉となる。

ミーク大尉の名前にピンと来る人がいれば、ここから先は読まなくても構わない。
ただ、こんなネットの辺境にあってミーク大尉の名前が出てきた事に驚く人は、私の注意書きもどこ吹く風で、きっと読み進めるに違いないのだが……。


事の起こりは、昨日の夜。
人と電話しながら(昨日は何故か沢山電話が掛かってきた)、例によって本の整理をしたりしていたら、一冊の本を見つけたことによる。その本のタイトルは『楽園の日々』というもので、私が大好きなアーサー・C・クラークの自伝である。

この本を手にした時、暫く忘れていたミーク大尉の事を思い出してしまい、結果、今日一日中『楽園の日々』を持ち歩き、暇を見つけては読むことになった。
そう、ミーク大尉は、アーサー・C・クラークが幼少の頃読んでいたSFパルプ雑誌、『ASTOUNDING』の作者の一人である。ミーク大尉はどうやら、武器絡みの部署の士官らしいのだが、何故そんな人物がSFを書いていたのか? 何故『ASTOUNDING』に於いて作家をしていたのか、それを確かめる術はない。

そのミーク大尉の荒唐無稽なSF的ホラ話に、一々注釈を付ける(勿論、イギリス人らしい皮肉と、慇懃無礼な態度をたっぷり込めて)アーサーの文章によって、実にミーク大尉という人物は生き生きとして見え、大変魅力的な人物に思える。
実際のところ、私はミーク大尉が書いたSFを読んだ事はなく、微かに知ることの出来る作品の内容はアーサーの解説に拠っている。ただ、「“科学探偵”バード博士」なる人物が彼の作品に於いて、しばしば主人公として登場する、と聞いてミーク大尉に興味を持たないものは少ないだろう。ちなみに、この「科学探偵」なるいかがわしい単語が、英語では何になるのか考えてみて恐らく「Scientific Detective」だろうとアタリを付け、検索に掛けてみたらミーク大尉その人ではないものの、「Scientific Detective Series」というシリーズが実在していた事には驚きを隠せない。

ミーク大尉の名前と久しぶりに対面して、沸々と頭を擡げてきたのは、当然の如くSF小説である。
私はSFが好きだと公言しておきながら、実のところ、「アーサー・C・クラークの短編小説」が好き、という非常にレンジの狭い、又ある意味で特殊な嗜好のSFファンである、という事は正直に告白しておく。で、あるからして、一般的なSFの名作の類は殆ど読んでいない。一応、申し訳程度にアシモフの『われはロボット』くらいは読んではいるのだが。

読もう読もうと思って、未だに読んでいないSFと云えば、フィリップ K.ディックの『高い城の男』である。
ストーリーの概略くらいは知っている(間違っているかもしれない)。舞台は「戦後アメリカ」なのだが、ここで云う「戦後」は我々の知っている戦争の結末を意味しない。作中に於ける「戦後」とは、第二次世界大戦に於いて日本とドイツが勝利し、アメリカを占領している、というそういう「戦後」なのだ。
ただ、日本の統治下にあるアメリカでは、実は「戦争に勝ったのはアメリカである」というフワフワとした噂のようなものがちらほら聞かれることになる。

つまり『高い城の男』は、現実の戦争に勝ったアメリカと「戦争に負けたアメリカ」という一種のパラレルワールドが交差する、その不思議な淡いを描いた小説という事になる。
ディックは、東洋的な思想を作中に持ち込み実践する事で知られている通り、これは「胡蝶の夢」が根本にあるらしい。何もSFというのは、「太陽系が」とか「2136年のニューヨーク」を描いたりしなくても良い、実はレンジの広いジャンルでもあることは分かってもらえると思う。実はライトノベルというのはかなり、SFのジャンルに近接しているという事も同時に気がつくだろう。

ただ、個人的にSFの要件を付け足すならば、「読み物として楽しいものである事」「(少なくとも)若干の真実性がある事」などを挙げるだろう。勿論、「楽しい」というのは個々人によって尺度が大きく異なるので一概に定義する事は出来ないのだが。
どこかの国のファーストレディが火星に行ったとか吹聴して回っているのは、SFではなく「ただのヨタ話」か「注目を集めたいが為の浅ましくも奇天烈な発言」である。


ともあれ、ミーク大尉によって久々にSF熱が戻ってきた私は、早速本屋さんで面白そうなSFを購入しようと思ったわけだ。SFを読もうと思ったら「ハヤカワ文庫」を探すのが一番手っ取り早い。私の所持しているアーサーの本も皆ハヤカワ文庫から出ている。

よく私がかかりつけの美容師によって目撃される、近所の本屋ではハヤカワ文庫はせいぜい15冊程度しか扱っていなかった。更に移動先でも本屋を見つけてはハヤカワ文庫を探したのだが、どこも似たり寄ったりで、場合によっては私の親指から中指先端までの長さ、つまり18、19センチ程度の幅しかハヤカワ文庫の為に用意していなかった書店もあった。
今日、最終的に四軒の本屋に立ち寄ったのだが、こうした本屋の状況はどんぐりの背比べの様相を呈していて、満足に本を選ぶ事すら出来なかったのだ。

しかも、不幸な事にその陳列された冊数が異常な程少ない本屋では、今日重たい思いをして持ち歩いた『楽園の日々』の文庫版を見つけてしまった……。こんなものが出ていたのか。
ただ、今日の本屋巡りは全くの無駄ではなかった。少なくとも今となっては絶版になっていると思しいアーサー・C・クラークの小説を、「傑作選」の形にしてリリースされていた事が分かったのである。目次を見てみると『明日にとどく』『天の向こう側』といった短編集から作品を抜き出し、一冊を構成しているようだ。一渡り見てみる限りでは殆ど既に読んだことのあるものばかりだが、恐らくそうでないものも一篇や二篇含まれているはずだろうから、近日中に購入する予定である。


嘆かわしいのは、本屋さんの現状であって、これはSFに限らず、「世界の名作を読みたい」と思ったとき、近所の本屋では欲しい本が見つからない可能性が高い。たとえそれが新潮文庫が出しているはずの『ハムレット』であっても。

以前(といっても10年単位での昔である)は、普通に本屋さんには、文庫本のコーナーにはひっそりと古今東西の「名作」と呼ばれる書物が置いてあったのだが、ここ最近、そうしたものが店頭から消えているようだ。
名作と呼ばれるものだけが書物ではない、という意見には同意するが、名作が手に入らないという一般書店というものもまた何かが決定的に欠けている気がする。
それは、ネットで本が手軽に買える時代になったせいなのか、或いは「売れない」からなのか分からないが、こうした本屋の現状はどこか寂しく、空虚に思えるのだ。





というわけで、酔いもすっかり冷めてしまいました。
今日は早めに床に就く事にします。今日買ってきたディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』でも読みながら。

それでは、また。
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by s-kuzumi | 2009-10-15 21:20 | 日々之雑記


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