2008年 06月 06日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.5

道玄斎です、こんばんは。
前回の講義からかなり時間が空いてしまいましたね。意外と読んでくれている人がいるみたいで、こういう怪しげな活動も少しは役にたってる部分もあるのかな、と思っております。

んじゃ、予告通り最終回、いってみよっか。


■おさらい

今回を含め、全五回の講義になってしまったわけで、いちいちおさらいをするのは面倒なのでリンクを張ってお茶を濁します。

第一回目
第二回目
第三回目
第四回目



■批評との関わりから

前回、テクスト論なんて小難しい話を持ち出してみたわけですが、結局「正しい批評なんて存在しない」という極々ありきたりの結論に達したのでありました。
フォローを少しだけしておくと、テクスト論は「好き勝手読んじゃえ」っていうのではなくて「こう読まざるを得ない」とか「こう考える事で他の~の解釈も変わってくる」とか、それなりの基準があって、使用される文学理論のようです。「俺はこう読む」っていうのがあってもいいけれども、完全にそれだとテクスト論としては成立しないんじゃないかと。
うんと簡単に言っちゃえば、「ただの感想」とはちょい違う、くらいに思って貰えればいいのかな。

さて、オタクな文化の方に話しを戻していきましょう。
某漫画(アニメ)で「オタクは自分の推論を自信100%で語る」というようなネタがありました。勿論、ここで言う推論とは「あのアニメの~の部分は~に影響を受けていて……」といったそういう類のものです。
オタクも究めてくると、単純に声優さんを調べたりって所に留まるのではなくて、監督やら作画やらそういう人たちを含めたキャスティングに注目していきます。最も分かりやすい所で言えば、「あのアニメは~が作っている」みたいに、製作会社に注目したりとかですよね。

だから、実はオタクの推論って意外と「自分勝手の適当な発言」ではなくて、割と根拠のある、言ってしまえばテクスト論的な発言が多いんじゃないかと。
そう、テクスト論は、作品を個別にぽんっと存在しているものではなくて、先にリリースされた作品からの「引用の織物」と見なすのでした。「必ず元ネタがあるハズだ」と考えて、それを推理する行為は非常にテクスト論的に思えます。

中には、「敢えて引用をバラす」ような作品があるのもまた事実。
普通、分かりにくいものの中から「これは~の引用かな?」と半分手探りで探していくわけですが、作品自らが「これは、~からとってますぜ」とバラしてくれる事もあります。
そういうのは、一読(一見?)すれば分かってしまうのですが、やっぱり或る程度は「これはアレから取ってるな」という推理の手順があると、ちょっと嬉しいですよね。それがほんのひとさじの知識で分かるものだったとしても。



■京都アニメーションと引用の問題

んで、前章の内容を踏まえて、京都アニメーションについて。
京都アニメーション、通称京アニ。 アニメに詳しい人にはお馴染みの製作会社です。圧倒的なクオリティと遊び心のある演出で近年、一気に知名度を高めた会社ですね。
今、ちょろっと調べてみたのですが、非上場ですし、資本金も一千万円と、割と小さな会社である事が分かります。それにも関わらず、ここまで知名度が高いのは、その丁寧でクオリティの高い仕事と、その「遊び心=センス」に依拠する所が大きいのではないかと。

問題としたいのはその「センス」の部分です。
私自身そこまでアニメに詳しいわけじゃないんだけど(じゃあ、アニメの事なんて書くなよ、と言わないで……)、ざっと京アニの作品を見てみて、気付いたのは「引用」が上手い、という事。

それは、アニメなんて全く観ません観るのはニュースだけですアニメなんて子供の観るモノですいいかげん大人になったらどうですか? 的な人が、観ても気づかないようなレベルの引用です。だけれども、しかし、「ちょっと流行もののアニメくらいはチェックしてます。いい歳ですけれども、すみません」みたいな人にはすぐに「ピン」とくるような、そういう引用の仕方をしているんですよね。
これって、物凄い重要な意味があるんじゃないかなぁ。

前章で、分かりやすいものでも「自分で推理」して出てきた解答は気持ちいいと書きましたが、まさにそのタイプです。しかも、ちょっとした知識があれば分かるレベルでの引用なんです。
いっちゃん分かりやすい例を挙げてみましょうか。

例によって『涼宮ハルヒ』でいきます。この例に対する批判は受け付けませんw
んで、アニメで「ミステリックサイン」というお話があったわけですが、その際、必殺技(?)を繰り出す小泉君が「ふもっふ!」と叫んでいます。
この「ふもっふ」なんですが、同じく京アニが制作した『フルメタルパニック ふもっふ』から取っていると思しいんですよ。というかほぼ100%そうでしょう。これは京アニが好きな人はすぐに「ピン」と来るはずですし、京アニが制作したかどうかなんて知識がなくても『フルメタルパニック』というアニメを知っていれば「ピン」とくるネタなんですよね。
なんだけども、一般人には、何のことだか分からない。

ちょっとぬるめのオタクくらいでも読み解ける「引用」という名の暗号が入っているわけです。
これは盛り上がらないわけがない。或る意味で読み解ける人を限定しながらも、その値が低く設定されている。更に、そうした「暗号解読」というプロセスに於いてオタク同士の絆(w)も強化してくれるというわけで、大したもんだと思いました。
これが、本当に上級者オタクにしか分からないようなネタだけになっちゃうと(そういうネタもこっそり混ぜてあるのが凄い!)、内輪だけの盛り上がりになってしまいます。盛り上がりのすそ野を広げて「初心者から上級者まで読み解ける暗号」と「上級者のみが分かる暗号」を並立させる事によって、「このアニメ会社分かってるなぁ」と思わせる効果があるんじゃないかな。



■コミックマーケットと古典文学

さて、引用にまつわる諸問題は、このくらいにしておきましょう。
んで、次にお話するのは、コミックマーケットと古典文学というお話。別にコミケじゃなくてもいいんだけども、一番有名だからね。

いきなりで恐縮ですが、今から950年くらい前にもコミケがあった、という衝撃的な事実を先ず語ろうと思います。

コミケの要件って、「一次、二次を問わず創作物」を「その為に用意された会場」で「同好の士同士」で「お披露目したり」「頒布する」ってところでOKでしょうか? 私の誤認があるかもしれないけれども、大体こんな所でしょう。

大体、今は二次創作がコミケ(を含む同人誌即売会)の花形なわけですが、こうした同人誌即売会は950年くらい前に存在していました。それは「物語合」(ものがたりあわせ)なるイベントです。もうちょっと正式に言うと「六条斎院物語合」といいます。

要は、各人が新作の物語を持ち寄って、お披露目会を開いたって事なんですが、これはもう同人誌即売会の元祖でしょう。このイベントでは、皆さんもご存じの『堤中納言物語』の中の一篇「逢坂越へぬ権中納言」という新作物語がお披露目された事まで分かっていますし、その作者が小式部なる人間である事まで判明しています。
コミケなどとの唯一の違いは、金銭の授受で物語が売り買いされなかった、という点です。けれども、当時の時代にあって、そのくらいの差異は大した事じゃなくて、良い作品は「お金を払って買う」ものではなくて、「自力で書き写す」ものなのです。
だから、ちゃんとこのイベントでお披露目された作品は書き手-受けての間で「流通」しているんですよね。

更に違いを言えば(さっき唯一の違いとかって言っちゃったけど、勘弁してね)、全員がクリエーターであり、全員が読者である、という辺りでしょうか。主催者とかは違うけれども、「各人」が新作を持ち寄ってわいわいやるイベントなのですから、全員が物語作者であり、その享受者でもあるのでした。
これは共通点なんだけども、全部一見「新作」に見えるけれども、前時代の物語の影響を受けたものが多数あった事想像に難くありません。ですから、厳密に言えば一次創作かもしれないけれども、その内部には多分に二次創作的なニュアンスも含んでいるんですよね。

こういう事が可能なのも、著作権という概念が希薄(というか無い)からなんでしょう。
著作権を守ろう、ってのは別に悪い事じゃないけれども、それがいきすぎてしまうと、名作なんて出てこなくなってしまう。ま、これは余談ですね。

まぁ、兎に角この講義全体で言いたい事ってのは、オタクな文化と古典の時代から近代まで続く「創作」の文化っていうのは、非常に近しいものがあって、「実はオタクが伝統の体現者」だというある種の援護射撃をしたい、というわけですw



■そしてノベルゲーム/サウンドノベルへ

つらつらとあれこれ述べてきましたが、「創作物」とかをそのまま「ノベルゲーム/サウンドノベル」に置き換えても、結構すんなり当てはまるんじゃないかと思います。
こうしたゲームの主体は、結局の所「文章」(狭義のシナリオって言っていいのかな?)がなわけで「物語製作」という意味に於いては同じだからです。 実際、シナリオライターよりも絵を描いている人の方がお金が多く貰えるなんて事があるわけですがw

結局、物語の歴史と同じように、サウンドノベル/ノベルゲームに関しても、名作が出てくると、それを引用するような作品群が形成される。そしてまた突出した作品が出て、それらが引用されて……という状況があると思われます。これは別に商業/同人を問わず言える事ですよね。

ただ、商業だと結局「お金の流通」になってしまいますし、「お金になる」企画じゃないと通らないわけで、結構シビアなモノになっていると予想されます。どういう事かと言うと、同人とかフリーでリリースしている分には、「或る程度の自由さ」がそこに加味出来るんですよね。
これは同人の良さの一つでもあるのですが「好きなものが好きなように作れる」という問題と不可分です。ところが商業だと「売れる為」には自分の好みを捨てないといけないような局面もあるんでしょう。たまに商業作品をプレイして、イライラした事ありませんか? 「また、このヒロイン属性かよ」と。私は結構あるんですよね。

ツンデレが流行れば、猫も杓子も「ツンデレヒロイン」をヒロインの中に入れてくる。
ツンデレな要素を盛り込みつつ、マイルドに仕立てるというよりは、徹底して「ツンデレ」なんですよね。結局、それはユーザーの求めるものであり「お金になる」という意味ではいいのかもしれないけれども、物語って或る要素を「引用」して利用する分にはいいんだけども、その要素に振り回されてしまうと、どうしようもなくなってしまう面もあるように思えます。
要素をコントロール出来るか、要素に振り回されてしまうか、っていう問題ですが、しっかりと手綱を握った上で最大限の作品を作るクリエーターの方には本当に頭が下がります。

こういう、事情があって、もう少しプリミティブな物語発声/物語製作/物語流通のあり方を魅せてくれるような、フリーのノベルゲーム/サウンドノベルが私にとっては溜まらなく魅力的に思えるのでした。

今の商業美少女ゲームのフェーズを、文学史に当てはめて見ると鎌倉~南北朝くらいの「鎌倉時代物語」のフェーズに入っているな、と感じます。
これは結構危機的な状況で、所謂一つの「衰退期」なんです。勿論、素晴らしい作品がちょこちょこと出てきてはいるのですが、シーン全体で考えてみるとどうにも衰退しているような気がしてならない……。
んで、文学史の通りに事が進むのならば、全体としての規模が縮小して、今の商業ゲームとはまた違った形に変化した上で(文学史で言えば、物語が衰退して、御伽草子というフェーズに入る)、細々と続いていくというわけですが、私の予想では、新しいフェーズがいつやってくるかは分からないものの、そうした新しい動きは「同人」だったり、いつも取り上げている「フリーのノベルゲーム/サウンドノベル」から興るのではないかと、そう思うのです。

フリーのゲームをひたすら探して、ひたすらプレイして、「これは……」と思えるような作品を取り上げていく、というのは、実は変化してく「ノベルゲーム文学」の最先端を追っている、という行為だと思っています。

連綿と続いてきた日本の文化をなぞるようにして、ノベルゲームは進化していきます。
もしかすると、「次」を予感させるようなゲームが出てきているのかもしれない。
兎にも角にも、私はこうやって、或る意味でくだらない事に一生懸命になって、日本文化(もっと正確に言えば、日本文学?)とノベルゲーム文化(ノベルゲーム文学)の両輪を見つめて、これからもやっていこうかな、なんて思っているのでした。


とまれかうまれとくやりてむ。


P.S1
気が向いたら、もっとノベルゲームに特化した「ノベルゲーム論」なんてのもやろうかと思っています。気が向いたら、ですけども。


P.S2
これまでの講義は、話半分、という事でw 専門家(いるのか?)から見たら至らない点が一杯あるかと思いますが、話を単純化していたりしますので、細かい間違いなどはご容赦願います。


ではでは。
[PR]

by s-kuzumi | 2008-06-06 18:37 | サウンドノベル


<< なんてことない日々之雑記vol.80      フリーサウンドノベルレビュー ... >>