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2009年 04月 07日

『江戸怪談集』 高田衛編・校注 岩波文庫

道玄斎です、こんばんは。
今日は久々に読書記録。や、まぁ、ここに書かないだけで日々本は読んでいるのですが、ちょっと面白くて且つ役に立ちそうな本でしたので、ご紹介致しましょう。


実は、隣に並んでいた『耳囊』とどちらにしようかと迷ったんですよね。
五分くらい書店の本棚の前で悩んだ結果、もうちょっと直接的なタイトルの『江戸怪談集』の上巻を買う事にしたというわけです。

タイトルが示すように、「怪談集」です。
怖い話が一杯詰まっているのですが、一つ注意が必要になります。それは本書が「代表的な怪談本から、作品を精選した」一種のアンソロジーになっている、という点です。有名な江戸期の怪談本、11種類から面白そうな部分をそれぞれ抜き出して、「怪談集」としてまとめた本、という事になります。

移動時間に読んでいる為、哀しい哉、まだ全て読んでいないのですが、やっぱりとっても面白いですよ。
江戸時代独自の言葉(或いは、それが元々収録されている本に顕著に表れる言葉、というべきでしょうか?)なんかもあって、一例を挙げると、「人」という言葉を使う代わりに「袖」と呼ぶとかですね。
袖ってのは、着物の袖の事でしょう。小袖とかいいますよね。敢えて直接人を人と記さず、袖と表記する辺りに、江戸時代の文化の片鱗が見えてくるような気がします。

で、一応、現代語訳の本ではなく、そのまんま古文の本です。
古文とはいへ、江戸時代ですし、『好色一代男』みたいな読みにくいものではなく、割とすんなり読めるかと思います。難しい単語なんかは(先ほど上げた「袖」とか)は、ちゃんと脚注が付いている親切設計。

「怪談集」と銘打たれていますが、そこまで怖くはないかな? という。
寧ろ「面白いなぁ」と思えるような、そういうお話が一杯載っています。狐の話だ、蜘蛛の話だってなポピュラーなものから始まって、善悪の報いみたいな、そういうお話も収録されています。
個人的に、これまで読んでみて面白かったお話は、「天狗の石降り」に関するお話です。

一応、軽く説明しておくと、天狗ってのが日本にはおりまして(?)、例えば山に入ると、何故だか分からないけれども、石が降ってくるとか、そういう現象があったわけです。本当に天狗がいるのかいないのか、とかそういうのとは別に、それを昔の人は「天狗の仕業」と考えたのは確かなよう。
天狗って云っても、例の鼻が長くて、みたいな造型だけとは限らず、実は僧形だったり色々ヴァリエーションがあります。中には、石の代わりに剣を降らす天狗もいるようです(名前は、確か太郎坊だったかなぁ?)。

この石降りなんですが、別に山の中に限らず、市中でもそういう現象があったらしい。
ある商家に石が降るようになって、町中大騒ぎになった、なんて記録も残っているくらいです。本書の中に載っているお話も、それに近く、家にですね、石が降るようになってしまった、と。で、「天狗の仕業に違いない」という事で、近隣住民がみんなビビるんですよ。「天狗の石降りに遭うと、死んじまうって聞くぞ。お祓いとかしてもらった方がいいんでないかい?」みたいなアドバイスを、石降りの被害に遭っている家の住民にする。

しかし、その住民はどこ吹く風で(というのは彼の信仰している宗派の問題とかもあるんですけれども)、全然気にしなかった所、結局、何も起こらなかった、という話。
で、結びの言葉みたいな所に、「気にするから良くないんだ。気にしなきゃ結構大丈夫だぜ」みたいな言葉が書いてあって、「病は気から」的な発想なんですけれども、何だか妙に可笑しくて、思わず笑ってしまいました。


気軽に読める本ですし(どこからでも読める)、ちょっと妖怪的な要素のある伝奇作品とか、江戸時代的な背景の作品作りのリアリティを増すのに使えそうな一冊です。お値段は文庫で一冊860円と、ちょっぴり高めですが、その分、割と厚いので。
私も上巻を読み次第、下巻の方も読破していきたいな、と思っております。


それでは、今日はこのへんで。
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by s-kuzumi | 2009-04-07 23:36 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2009年 02月 24日

『日本の文章』 外山滋比古著 講談社学術文庫

道玄斎です、こんばんは。
今日は、お昼過ぎからちょっと遠出をして、戻ってきてから書き物をして、そいつを郵便で出す、という結構めんどくさい一日でした。添付ファイルが通用しない事もこの現代に於いてまだまだあるようです。
で、結局、郵便は最終便ギリギリで出しました。郵便局って八時までやってるのね。


というわけで、滅茶苦茶久しぶりの読了記録。
「ノベルゲームと関係ねーじゃん」と言う勿れ。ゲームシナリオのライティングなんかにも大いに関係のある本だったように思います。
この本自体は、かなり昔に「面白い本があって、読んでいる」とちらりと名前を出したように記憶していますが、本が常時積み上がった部屋で生活をしていたりすると、読みかけの本がどっかに行ってしまう、という事がままありまして……。
先日、書庫の整理をしたらひょこりと出てきて、今日も移動時間なんかに読んで読了。

本のタイトルから、「文章指南の本」と思う向きもあるかもしれませんが、さにあらず。
読みやすい文章とはどういうものか? 一方で読みにくい文章とか何か? 翻訳に関する諸問題、日本人の作文下手はどこから来るのか? など「文章」にまつわる話が沢山詰まった良書。聖書の欧米人に於ける作文に及ぼす影響なんかもかなり興味深い話でした。
一本の大きな本、というよりは、一話につき6~10ページほどの文章にまつわるエッセイ集といった趣です。著者は英文学・英語教育に精通している先生でもありまして、却って日本語を専門にしている先生の書いたものよりも鋭い視点で文章というものを捉えています。

今、見てみると、本の後ろには「¥450」とシールが貼ってあって、その下に「BOOK・OFF」なんて文字が。
多分、結構前にブックオフで興味を持って購入したっぽいです。
本筋からは離れてしまうのですが、私は「本は購入する」ようにしています。図書館で本を借りる、というのはどうしようもない場合(既にして入手不可のものとか、貴重書など)はそれはそれとして、どうにも読んでも記憶に定着しない気がするんですよ。
それに、私の場合、読んでいて気になった部分があると、(文庫の場合は特に)本の隅っこを折って目印を付けたり、或いは鉛筆で線を引いたり、チェックを付けたりします。図書館の本はそういう事をしちゃ駄目ですからねぇ。

これからお話しようと思っている、この本の内容も、私が付けた折り目を元に、読書した記憶を辿るわけですな。


著者である所の外山氏は「何でもいいから書いてみなさい式」の幼年期に行われる作文教育が、我が国に於いて上手い文章の書き手の少ない理由の一つとして挙げています。
そもそも、自分自身の記憶を辿ってみても、国語の先生が上手な文章を、或いは印象に残るようなフックのある文章を書いていた事は皆無です。
まぁ、私自身、「上手い文章とは?」というどえらい問題を語る資格があるのか、という大前提の問題がありますが(こうやって駄文を書き散らかしているしね)、そこはそれ、割り切って書いていく事にしますw

著者は「型を覚えさせる事が大事」というような主張をなさるのですが、これは私も大賛成です。
別に外国の真似をしろってんじゃなくて(アメリカなんかは、こういう文章の型を覚えさせるのが国語教育の大事な要素になっているようです)、最低限の型があって初めてオリジナリティが出てくる、という考えです。

昔、やはりどなたかの本(もしかするとこの著者かもしれない)で読んだのですが、そこにも「何事も型が大事だ」と書いてありました。更に、印象に残っているのは「型が出来ているから、型を壊して“型破り”な事が出来る。一方で型がないと“型無し”になってしまう」という趣旨の文章。

私も最近、特に文章を書く上での「型」という問題を意識するようになっています。
いや、意識していても自分の文章はいつものまんまだけどもw
何で、文章の型を意識するようになったのか、というと、私の所に良く論文の添削みたいな依頼が来るからです。論文といっても、エッセイと区別の付かないようなものではなくて、一般的な学術論文の類。
で、博士課程に一応身を置きつつ、これから学術の世界に打って出ようとする人の論文を読んでも「何だこりゃ?」と思う事が屡々あるのです。

敢えて、学術論文(人文系だと思って。理系は分からん)の型を示すとすれば、それは三拍子になると思います。つまり、

①「結論」

②「論証」

③「結論」

という順番の型です。
勿論、好みやスタイルというものは個々人であると思いますし、こうした型に囚われずに文章としても素晴らしい論文を書く方も大勢いらっしゃいます。
だけれども、自分が経験したり考えたり、人の物を読んだりして感じた学術論文の基本型はこの三拍子になるのではないかと思うのです。

最近、私の元に添削依頼がやってくる論文は、こういう型を持っていません。
あわてて付け加えておきますが、私は人の文章に添削出来るような、そんな大層な人じゃありやせんぜ? だけれども、半ば一方的に送られてくるんだからしょうがない。

で、どういう論文が送られてくるかってぇと、先ず序として、なにやらゴニョゴニョと先行する研究史の纏めみたいなパートがあって、何だか良く分からないままに、論証パートが始まって、かといって結論部がその論証の結果を示すものでもなくて、何だか更に新しい結論が導き出されたりして、最後の跋文では「紙幅の都合で……」云々云々、というタイプ。

あちらさんは私にそれなりの信頼度を以て、添削を依頼してきているわけですから、私も全力で自分の考える所を明らかにして、フィードバックしてやらねばなりません。
ですので、「最初に結論を述べて、論文の全体像が見えるようにしろ」と多少厳しい言い方になってしまうのかもしれませんが、主張しております。
個人的に、結論部が分からないまま、論文のような文章を読むと、何だか足下が危なっかしいというか、どこに行くのか分からない妙にフワフワとして落ち着かない気持ちになるのです。最初に結論を示し「終着点はここですぜ」という主張があれば、後は安心して読める。

で、最初に示した結論がどうして導き出されるのか? という論証パートを経て、最終的にやっぱり結論は○○です。という再確認をする。やはり、この型が私は一番学術的な論文には合っていると思います。
勿論、先行研究の問題を取り上げるのは大事な事ですし、それが無いと説得力もゼロになってしまいます。けれども、そうした部分に気を取られ、却って論文そのものが分かりにくい何だかヘンテコな文章になってしまっている事が多い気がするのです。

これって、もしかすると、作文教育なんて殆ど行わない我が国の国語教育であっても、誰しもが習う「起承転結」という文章作法に根本的な問題があるのかもしれません。
それを我々は(と一般に敷衍してますが、きっとそうだよね?)何でもかんでも「起承転結起承転結」とお経の様に言われてしまったので、結論は最後に持ってくる、というやり方が、染みついてしまっているのかも。
ただ、これも何度も書いてますが、この起承転結って元々漢詩の「型」なんですよね。漢詩を書く文には便利かもしれないし、適切な型であっても、「現代」の「事実を伝えるタイプの日本語文章」を書くにはあまり適していない型なのかもしれません。特に論文とかでは。
つまり、起承転結が適切な文章と、適さない文章がある、という事ですね。

漢詩ってのは、ある種の「ドラマ」な気がします。
五文字四行だったりの文章に、世界を与えて、ドラマを見せる。そういう或る意味でドラマチックな文章ではないかと愚案致します。
だからこそ、実は「起承転結」型は、ドラマを描くノベルゲーム/サウンドノベルにも適用可能なわけです。うんと単純に一般的なハイスクール恋愛アドベンチャーを例にしてみましょう。


①朝、学校に行く途中の曲がり角で、食パンを加えた女の子にぶつかる。ついでにパンツ見える。殴られたりと、暴力的な被害に遭う主人公。教室に着くと「転校生が来るぜ」という話題で持ちきり。何と転校生は朝ぶつかった(そして殴られた)あの娘じゃないか!

②朝ぶつかった事が縁になって(プラスして、朝の女の子は、何故か主人公の周囲に空いた席があって、そこに座る事になる)、少しづつ親密になっていく主人公と女の子、というかヒロイン。

③このままラブラブ展開一直線か? と思わせておいて、ヒロインには何か悩みや過去に何かあったらしい事が分かり、波乱の展開に。

④実は、転校生は、主人公が幼い頃仲良くしていて、今も夢の中に出てくる名前も忘れてしまった女の子だったんだ! 何故、そんな大切な事を主人公は忘れてしまっていたんだ? そう、そこには主人公とヒロインの間にとても悲しい出来事があったからなのです。だけれども、主人公は記憶を取り戻し、「あの時、守ってやれなかったけど、お前が好きなんだ!」と告白。二人ともそこでようやく過去の柵から解き放たれ、ラブラブハッピーエンド。


と、まぁ、こんな感じw
伝えたい事は分かるでしょ?w
で、大事なのは、①②③④が、起承転結に対応しているという事。
逆に、こういう(というにはあまりにもベタ過ぎるけど)ドラマにおいて、結論が先に出てしまったら、全然面白くないというか、ドラマにすらならないという。
今の例で言うと、朝ぶつかった時に「お前……○○じゃないか!」と一発で思い出して、一瞬でアベックになってっしまうというヤツです。そんなゲームはないよねぇ。勿論、「結」か? と思わせておいて実はそれが「起」だったという可能性もあるわけですが。ああ、そうだ。「ぼたんゆきタイプ」がそういう展開をするんだったw 久々の『ぼたんゆき』への言及ですな。

さぁって、何を書いていたんだか分からなくなってきたぞ……w
そうそう、日本の文章の問題でした。
だから、ノベルゲームで「起承転結」というのは或る意味で、スタンダードな型なわけですね。
一方で、新事実をお知らせする「論文」はこんなドラマチックな展開である必要な無かったりします。要はその新事実がちゃんと読み手に伝わるかどうか。問題はそこです。
ちゃんと内容も伝わって、その上でドラマチックで読んでいて興奮してしまうような、そういう優れた論文もあるっちゃあるんですが、そういう事が出来る人は本当に希。下手すると訳の分からない、電波系の文章になってしまう恐れだって十分あるわけです。だったら、最初っから型を守って、先ずはスタンダードに最も確実に相手に伝わる文章にしようじゃないか、その上で、一旦作った型を破って、「情報伝達」と「文章の美しさ」が両立するようなものを、少しづつ確立していったらどう? というのが私の考えなのでした。

だから、送ってもらった文章に、畏れ多くも結構駄目出しをしてしまったりします。
いったいてめぇは何様だよ? という事が聞こえてきそうですが、その責任の半分は私に送ってよこした方にもあるとおもふw


ここらへんで、話を『日本の文章』に戻していきましょう。

「どんな偉い人の文章でも、おもしろくなければ三行で投げ出すことができる」とい一文がありました。これはスピーチと文章に関わる章での文章なのですが、ここまでさっぱりと書かれると却って清々しいですねぇ。なんか「名作」とか「偉い人」が書いた文章となると、無理をして読んで、結局なんだか良く分からなくて、ある種の「苦行」みたいになる事が屡々。でもって分からないのは自分の頭が悪いせいだ……と思いこんでしまうのですが、偉い人だろうが何だろうが、「宜しくない文章」を書く事があるわけです。

翻訳の章とも重なってくるのですが、所謂「名作」と呼ばれるもので、私がどうしても読めない本があります。『失われた時を求めて』です……。いや、各巻のサブタイトルとかを見ると、んもう私のモロ好みな感じで「うわっ、今すぐよみてぇ!」と思ってページを繰るのはいいんですが、30ページも読むと辛くて辛くて。
で、「もう少し発酵するまで置いておこう」なんて考えて、暫く放っておくと、今度は読んだハズの30ページ分の内容が全て吹っ飛んでいる。
それで、また読み直すと、やっぱり30ページとか、頑張って60ページくらいまで読むんですけれども、やっぱり辛いので置いておく。そうすると読んだ部分の内容が吹っ飛んでいて、最初から読むんだけども……。

この無限ループをもう、15年くらいやってますw 
私の読んだのは勿論、訳本です。プルースト研究の第一人者の方が書いた訳本。だけれども、『日本の文章』に勇気づけられて敢えて言ってしまえば、きっとこの訳者は、「宜しくない日本語」を書いている! とおもふ……みたいな……?w
や、真面目な話、多分「訳」としては、ヘタクソなんだと思います。だって、日本語を母国語として、それなりに色々な本を読んできたりしている私が読めないのですから。って書くと何だか自信過剰な人みたいで厭ですねぇ。というか、普通に日本語を使って生活している人が読めないってのは、どうにもねぇ?
興味があれば、是非筑摩文庫の『失われた時を求めて』、読んでみて下さい。私の言った事の意味が少し分かるんじゃないかな、と思います。単純に私の頭が悪いだけ、だったら厭だなぁ……w

その他にも面白く、興味深い章は本当に沢山あるのですが、流石に長くなってきたので、あと一つでやめにしましょう。
それは「後と後の連結のついて述べた国語辞典が無い」という問題です。落ち着いて考えれば、そこまで言葉を規定するのは不可能に近いから、そうしたモノがないんでしょうけれども、ちと思い出した事があったのです。

そう、それは中学三年の初夏の事でした。
私の中学校は、修学旅行が三年に上がるとすぐに実施されます。実質二年生の時からコツコツ準備をしているわけです。で、三年になりクラス分けがなされると修学旅行の班決めが平行して行われ、あれよあれよという間に、京都に居るというw

で、卒業文集に生徒達が書く文章の内容は大体「部活」もしくは「修学旅行」についてです。
私もその例に漏れず修学旅行を卒業文集のネタにしました。ほら、だって部活って言っても囲碁将棋部だったし……w
それは兎も角、今でも覚えているのが、そのイントロ。

「今を去る事八ヶ月前、私達は修学旅行で京都に行きました」

それから、云々云々いつもの調子でどうでもいい事を書き散らかしていたのですが、何と担任であった国語教師からクレームが付きました。「今を去ること」という表現はオカシイから改めよ、というものでした。
うーん、確かに「今を去ること」っていうと、感覚的に「年単位」で時間が経った時に使うような気もしないでもないのですが、そんな事は些末な事のような気もする。
実際、卒業文集に載っている私の文章は「八ヶ月前、私達は~」と「今を去ること」だけを削除したもの(させられた)となっているのですが、「今を去ること」が付いていようと付いてなかろうと、そんなに関係ないような気がします。
こういう時に、「今を去る事」という表現は「年単位の過去を示す時に使われるものである」という辞書なり、学説なりの根拠があれば、納得出来るんですが、そうしたものを寡聞にして私は今までお目に掛かった事がありません。割と「今を去る事」なんて表現は普段何の気なしに使ってしまう事も多い言葉ですが、正しい用法(なるものがあれば)を調べるたつきが分からない。
「今」で辞書を引いても絶対載ってないのは分かるし、「去る」でやっても多分載ってないだろうな。

そうやって考えていくと、日本語ってかなりアバウトにみんな使っているんじゃないかな、なんて思うわけです。使い方の問題はともかく、そういう意識なりを持つ、という事に意味があるんじゃないかしら、とも。


もうタイピングも疲れたからこの辺で打ち止めにしますけれども、兎に角面白い本です。
文庫ですから、持ち運びも楽々。シナリオを書く人も、或いはレビューを書く人も、はたまた普段、文章を書いたりする事が多い人も是非読んで貰いたい本です。

で、もし、詳しい方がいらしたら「今を去る事」の正しい用法を教えて下さいw


それでは、また。
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by s-kuzumi | 2009-02-24 23:02 | 読書 一般図書 | Comments(2)
2008年 03月 15日

一般図書:『我身にたどる姫君』 フォロー記事

道玄斎です、こんばんは。
今日も今日とてあれこれ作業に追われていました。
けれども、大体のたたき台は出来たって感じですかね。実はここからが勝負で如何に「テク」で魅せるかって事なんですけれども、週末までにベータ版を作っちゃいたい所です。
あっ、ちなみにゲーム制作じゃないよ。ふつーの面白みもない普段の雑務です。


さてさて、実はこのブログに結構な人が「我身にたどる姫君」で検索されて来ているという事実があります。何ヶ月か前に読書記録として付けた記事を参照して下さっている方が多いんですね。
「日本初の百合小説」なんてあだ名がついているから、需要が高いのでしょう。

でも、思ったようなデータがない、という方もいらっしゃったようで、そうした方達の為にフォローの記事を書いてみようかな?っと。折角来てくれたんだもんね。そのくらいのサービスはしても罰は当たらない。 最後に参考書とかを挙げるつもりですので、お付き合い下さいね。

やっぱり、皆さんの関心は「百合」の部分です。
ここでは、『我身にたどる姫君』という古典作品に出てくる「前斎宮」とその身の回りの女房達(女性の付き人みたいな感じですね)の関係を「百合」と定義しておきます。

で、『我身~』は全八巻というかなりのボリュームを持った作品ですので、「読み切れねぇよ」なんて声が聞こえてきそうですが、実は「前斎宮」が出てくるのは六巻目からです。
極論してしまえば「六巻目から読めば良い」という事になります。
「百合だけ追っていきたい」という人は、六巻目から読んでみればいいんじゃないかしら?実はストーリーみたいなものは、五巻末でストップしていて、ちょっと別の時間軸で六巻は展開されていきます(だったよね?)。

ですので、六巻目からでもちゃんと読めるハズ。
六巻はまるまるこの「前斎宮」と周辺の人物のお話が展開される巻です。
んで、七巻を挟んで、八巻目後半に、再び「前斎宮」とその周辺が語られ、「前斎宮」の元に事えていた女房のその後を描き、物語は幕を下ろします。

全八巻のラストがこの「前斎宮」絡みの記事で終わる、というのは大変意味深です。
どう見てもこの「前斎宮」なるキャラが「一発キャラ」的なものではなくて、もっと物語の中に深く関わってきそうな、そんな感触があるのです。
そもそも、この物語の特徴の一つとも言える「女帝」との対比がこれでもかと繰り返されるあたり、興味深いですね。「女帝VS前斎宮」、「女帝に事える女房・女官VS前斎宮に事える女房」というような、対比構造が見て取れます。
あー、ちなみに専門の論文とか一切見てないから、この記事は半分は私の戯れ言ですよ?

ノベルゲーム/サウンドノベルという形ではあるものの、「物語」に関わるものとして、私は『我身~』を強く推したい!

大体、文学史のセオリー通りに行くと、物語作品って『竹取物語』から始まって、『源氏物語』で頂点を極めて、『狭衣物語』とか『夜の寝覚』『浜松中納言物語』『松浦宮物語』なんて「後期」の名作が誕生して、有象無象の同人誌的な「鎌倉時代物語」(中世王朝物語とも)が出てくるわけです。
うんと駆け足ではしょりまくってますが、大体こんな所でしょう。

で、『我身~』は一応、鎌倉時代物語というグループの中に属しています。
この期の物語は、『源氏物語』或いは『狭衣物語』という二大古典の「同人誌」的な性格が非常に強いわけですが、その中でも異彩を放っています。
自分自身、サウンドノベルをプレイする時に良く「ぼたんゆきタイプ」という言葉を連発しているわけですが、どうにも、こういう風に「ゲーム史」というか系統樹というか、そういう風に捉えてしまうのでした。あんまり褒められたもんじゃないんだけどもね。
そういう意味で、系統樹の末端に位置するような『我身~』は、凄く興味がある作品なのです。


で、あんまり気軽に(そして手軽に)購入出来るような参考書はないのですが、色々紹介してみます。何はともあれ、「物語」ですから、実際に読んでみるのが一番です。たとえそれが六巻目からでも、ね。



□手軽に百合シーンだけ見たい人向け参考図書

・『色好みの構造 ―王朝文化の深層―』 中村真一郎 岩波新書 1985

この本の第八章目に『我身~』の百合シーンが抜粋されて解説が加えられています。これを読めば取り敢えず『我身~』の百合シーンは分かるハズ。
今、アマゾンで「色好みの構造」と調べたら、すぐに見つかりました。在庫もあるみたいなので、先ずはこれを読んでみたらどうでしょうか?


□作品の概略などちょっと突っ込んだ情報が欲しい人向け参考図書

・『中世王朝物語・御伽草子事典』 神田龍身、西沢正史編 勉誠出版 2002

※分厚い事典です。
485ページから『我身~』の項目があり、成立や概要、作中人物の系図や研究史なんかが纏められています。私は持っているのですが、定価が何しろ26000円くらいするので、気軽に購入出来ないという。
大学図書館や、近所の図書館で見て、必要箇所をコピーとかすればいいんじゃないかな?


□兎に角物語を実際に読みたい人向け参考図書

・『我身にたどる姫君』 今井源衛・春秋会 桜風社 1983

※全七巻。意外と入手困難かも。ただ、楽天ブックスで購入出来るハズ。
この本は、本文と現代語訳が交互に表示されるタイプの本、その気になれば現代語訳だけを読んでいくことも出来ます。系図や簡単な資料もついていて、読みやすいんじゃないかな。ちなみに私もこれで読みました。
お値段も一冊1000円そこそこなので、全巻揃えても10000円でおつりが来ます。


・『我身にたどる姫君物語全註解』 徳満 澄雄 有精堂出版 1980

※これは全一冊。私は持っていないので詳しい事は分かりませんが、恐らく現代語訳もついていると思います。一冊で完結しているのが魅力ですね。アマゾンで古本として出ていました。そういえば、有精堂って潰れたんじゃなかったっけ……。とすると新刊は入手出来ません。古本を探しましょう。「日本の古本屋」というサイトで探したりすれば、いいんじゃないかな。
出版社が潰れちゃっているので、お値段は少し高めかも。



大体、上の二冊が、「実際に読む」為の本ですかね。何しろ「超マイナー」作品ですから、このくらいしかまともな注釈書がないという……。



□その他の参考図書

・『我身にたどる姫君(全)』 平林文雄編著 笠間書院 1984

※所謂「翻刻」本。
一冊で完結しているのはいいけれども、本文校訂が付いた翻刻が載っているので、あまり「読む」のには向きません。翻刻とは乃ち、昔の人が書いたミミズがのたうち回ったような字を現代の字に直すという事です。
ただ、最初に解説や、参考文献が載っていたりするので、補助的に見てみると良いかもしれませんね。或いは図書館なんかで探して必要箇所をコピーするとか。
ちなみに、後書きは途中でページが切れてしまっていますw 出版社に問い合わせた所、全部そうなっているらしい。私はFAXで、切れてしまった部分の続きを送ってもらいました。
どーでもいーけど、この本の表紙は変体仮名(ミミズの字です)があしらわれたデザインなので、今見てみたら、

「むかしをとこうゐかうふりして」

とか書いてあります。って『伊勢物語』じゃねぇかよ!w


・『鎌倉時代物語集成 第七巻』 市古貞次、三角洋一編 笠間書院 1994

※これも翻刻本。
『我身~』も収録されていますし、他にも複数の物語の翻刻が収められています。あんまり読む為には使えませんな。本格的にお勉強する人向けかしらね。



大体こんな所かな?
専門的な本とかを探せば、まだちょこちょこと記事が載っていそうですけれども、纏まっているものは大体これくらい。
そうそう、忘れる所だった。笠間書院から『中世王朝物語全集』というシリーズが刊行されていて(刊行中です)、『我身~』も出る予定になっています。
このシリーズはページの上部に注釈が、中部に本文が、下部に現代語訳が付いているという親切設計。私も新刊が出る度に購入しています。


私自身、無学の徒でありますが「鎌倉時代物語」ってのは、要するに「同人誌」だと個人的には思っています。
現代のコミック・アニメの同人誌の発生や場の広がりみたいなものに、凄く似ているように思えるんですよね。ビッグネームの作品が出てくると、その「オイシイ」場面を抜き出して「二次創作」を行うみたいな、そういう所が凄く似てる。今度はその二次創作を更に二次創作していくようなものが出てきたりと、やってる事は1000年前と現代もそんなに変わらない。
寧ろ、ヲタクだコミケだアニメだなんだってのは、物凄く古典的な活動に思えるのです。

まぁ、私のそんな戯れ言は兎も角として、大体、挙げた参考書を読めば『我身~』が分かるのではないかと思います。
『我身~』で記事を書いちゃった手前、こういうフォローも必要だと思い、こうして新たに記事を書かせて頂きました。何かお役に立てたなら存外の喜びです。


道玄斎
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by s-kuzumi | 2008-03-15 03:50 | 読書 一般図書 | Comments(5)
2007年 11月 01日

『我身にたどる姫君』 作者不明

道玄斎です、こんばんは。

先ほど、読了致しました。
日本最古の百合(レズ)描写を扱ったとされる『我身にたどる姫君』という作品を……。

多分、読んだことがある人は少ないんじゃないでしょうか。
『源氏物語』を超メジャーだとすると、本作は超マイナーですよねw


結構長い作品(全八巻)でしたので、読了後の気分は最高です。
こういった古典文学と日常的に関わりも無く、又素人である私があれこれと書くのは非常に烏滸がましい事ではあるのですが、記録として読書記録を付けておこうかと。
読書記録でブログを書くのはなんだか久しぶりです。

さて、ここで、改めて今回の記録の注意書きを。
百合・レズという語に対しての注意です。


私は、わりと百合とかそういうものに関心があるほうですので、たまに気が向くとそういうサイトを見たりします。『マリみて』の読書記録を付けた事からもそれがわかりますよね?
さて、割とそういった「百合」を扱うサイトを見ていると、「あんたの"百合"を押しつけないでちょーだい」ってな注意書きが書いてある事が屡々あります。

どうやら、ある状態を「百合」、或いは「レズ」と評すると、「それは百合ではなくレズです」若しくは「それはレズではなく百合です」といったような、コメントが付くんだそうです。何となく私も感覚的には分かります。淡い恋愛タッチのものに限定して「百合」を認定したり、或いは性関係を含む女性同士の関係は「レズ」としたりしたくなってしまいます。
人それぞれ、解釈が違うのは当然なのですが、無用なトラブルは回避したいw
ですので、私が以下に書く読書記録にあたっての、百合、もしくはレズの語を定めておこうかと思います。

・女性同士の恋愛(時に性関係も含む)を扱ったものをその程度の差も含めて今回は「百合」と一律に規定する。

これでOKですかね。
では、続きを……。



さて、私も噂には聞いていました、『我身にたどる姫君』。
どうやら日本最古の女性同性愛が描写される小説らしい、と。
少しは古文なるものが読める私は、「じゃあ読んでみようじゃねぇか」と意気込んで早速本を仕入れたのです。

しかし、まず本を入手するのが一苦労でした。
注釈のついたテキストは既に絶版で入手する事がきわめて困難だったのです。翻刻(昔の人の字を現代の活字になおしたもの)ならいくつか入手するアテはあったのですが、どうせなら注釈を読みつつ、しっかり理解していきたいな、と。

仕方がないので、ネットで、古本屋さんをサーチする事にしました。
今はネットで古本が買える時代です。やはり、こういう学術系の本は高い。しかも絶版だと値段が更に高くなる。余裕で新品の値段より高くなってしまいます。

あれやこれやと検索を続けた結果、オンラインで買えるお店を発見しました。
しかも、値段は新品の値段。絶版とはいえ扱っている所があったんですね。

今回、私が使用したテキストは今井源衛さんという方が注釈を付けていらっしゃるもので、全七冊のシリーズであります。一応現代語訳、系図、注釈、索引がついており、現時点で素人が読むのには最適なものでしょう。

ただ、曲がりなりにも「こいつを読んでやる」と決心したからには、安直に現代語訳に頼るわけにはいきません。基本は古文を読む、という事です。下手をすると、現代語訳に惑わされてしまう事もあるので、現代語訳は参照程度に留めておきます。
一番重要だったのが系図でして、各巻の最初に系図がついているので、そのページに付箋をつけて常に参照しながら読み進めていきました。
又、系図自体が間違っている可能性も否定しきれなかった為、読書に平行して、自分でも系図を書いてみました。


とにかく、「読むことが難しい」作品だったと思います。
文章が何故か非常に難しい。意味がとりづらい、というか意味が取れそうな所でするりと不可解なゾーンに突入してしまうような。
又、人物の呼び名が非常にわかりにくい。
例えば「宮」なる呼び方が本文でされるわけですが、この「宮」に該当するような人間がぞろぞろ居て、いったい誰が誰なのか、この場面では誰を指しているのか、が不明瞭。
勿論、場面によってはかなりスムーズに読み進めていく事が出来たのですが、全体的に見るとやはり難しい作品だったなという印象です。
『風葉和歌集』という物語作品の和歌を集めた作品集に、本作の和歌が載っていることから『風葉和歌集』が成立した1271年以前に、何らかの形で本作は成立していた事だけは分かっています(ただ、それは巻四までなのではないか、という疑問も出ているようです)。

大体、このくらいの時期の作品は割と読みやすいはずなんです。
おおよそ確実に、時代が現代に近づくにつれて読みやすくなってきます。
けれども、これは難しい……。


それでも頑張って読んでいきます。
系図を書いては消し、注釈を読み、時に現代語訳を参照したりと頑張ります。
けれども、全然百合は出てきません。
寧ろ、途中で出てきた女四宮なる人物が、ツンデレ大王みたいな感じで、そっちの方に気をとられていたくらいです。
もう、いい加減百合の事を忘れて、物語そのものに没頭し始めた巻六で、突如として百合描写が出てきました。

この巻六というのがクセモノでして、前斎宮なる人物と女帝(そう、途中で女性天皇が誕生するのです。どうでもいい事ですが、日本の最新の女帝は江戸時代の後桜町天皇ですね)を対比するような形で進んでいく巻です。
前斎宮VS女帝、前斎宮の女房VS女帝に使える女官達といった具合に、とにかくこの二つの勢力(?)が対比的に描かれる巻です。全巻読了後は、どうもこの巻六が、この作品の転換期というか、区切りみたいなそういう印象があって、気になる所です。

さて、お待ちかねの、百合描写です。
右大将なる人物が、前斎宮のおうちに行って、様子をこっそり覗く場面。

同じ程なるに若き人二人、いづれか主ならん、さしもあるべくもあらず。物暑れてなり行く頃を、薄き衣を引き被きたるうちに、限りもなく、息もせざらむと見ゆる程に、首を抱きてぞ臥したる。
~中略~
衣の下も静かならず、何とするにか、むつかしうものぐるほしげなるに、様変り、ゆかしきかたも混れど……


とこんな感じ。
その後も、前斎宮に仕える女房の寵愛争いとか、ちょっとソッチの世界が描かれていきます。前斎宮は小宰相なる新人女房に興味を持って、前からの百合友達(?)をないがしろにしてしまうのです。すると前からの百合友達は怒りを顕わに……みたいな。
その後の斎宮は「三人で寝よう」なんて発言もあったり、ヒステリーを起こして庭に飛び降りてそこで寝ちゃうとか、もうなんていうか……。

この前斎宮、敢えて言うならば「淫乱百合斎宮」という事になりましょうか。更に更にこの斎宮、どうやら女性オンリーで好きなわけでもなくて、男性の相手も出来る両刀遣いですw

斎宮というのは、皇族の女性がなるべきものでして、やはり素敵な女性を期待させます。しかし前斎宮はどうやらノイローゼの気もあったり、更に早口でもあるらしく(同じ言葉を重ねて発声したりする)、品性のかけらもありません。ほんのりとした同性愛、なんてもんじゃなくて、もっとおどろおどろしい世界です。
当時の規範から逸脱したちょっと異常な女性として描かれます。前述の女四宮もツンデレ大王なんて枠に当てはまるわけじゃなくて、実はやっぱり異常な女性に近い手触りです。

問題なのは、この前斎宮。一発キャラっていう訳でもないんですよね。
物語の〆、巻八のラストに出てくるんです……。寧ろこの前斎宮の周辺の事情を語り物語は幕を下ろすのです……。六巻になっていきなり出てくる前斎宮なわけですが、こいつをただの脇役で片付ける事は出来ないぞ、と。
最後の最後に出てくる登場人物は、前斎宮の所に新人女房(=メイド?)としてやってきた小宰相なのでした。
結局、小宰相はお兄ちゃんや伯母さんやらが頑張って、変態前斎宮から引き離してまっとうな生活をさせるわけですが、
小宰相は、前斎宮にも時々は手紙を送ったりする細やかな心遣いも見せてくれます。彼女は右大臣の家に仕えてしっかりと生活していきました。
みたいな文章で、この『我身にたどる姫君』は幕を下ろします。

いったい、この前斎宮何者なんだ……?
絶対にただのネタキャラとか、一発キャラじゃない。なんかこうもっとこの作品の根本に関わっているような……。なんか、百合というキーワードでこの作品を読んだんだけども、もっと別の好奇心が刺激されてしまいました。

興味のある方、是非是非、読んでみて下さい!
高校生の古文のお勉強にもいいかもしれませんよ?w
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by s-kuzumi | 2007-11-01 00:06 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2007年 07月 30日

『よくわかる 「世界の妖怪」事典』 世界の妖怪を探求する会著 廣済文庫

こんにちは、久住です。
最近は、道玄斎さんがノベルゲームのレビューばかり書いているので、すっかり御無沙汰してしまいました。
その間、わたくしは何もしていなかったわけではなくて、本を注文してみたりしましたので、少しづつ読了記録も載せていこうと思っています。

今日もご近所の本屋さんにいってきたのですが、あまり興味をひかれるものはありませんでした。しかし、あまり学術的(講談社の学術文庫とか、岩波文庫)ではなく、ちょっとサブカル寄りの文庫シリーズで気になるものがあったので、とりあえず購入してみました。
それが『よくわかる 「世界の妖怪」事典』です。

ざっと読んでみた所、ほとんどが鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に出てくる妖怪たちばかりで、「世界の妖怪」というタイトルとずれますね……。

述べましたように、殆どが『画図百鬼夜行』なのですが、中国物の妖怪や、西洋物の妖怪も少し載っています。
ただ、神農を妖怪にしてしまうのは問題ないのでしょうか?
神農に関しては、『捜神記』の記事をひっぱってきてもらいたかったですね。


神農以赭鞭鞭百草、盡知其平毒寒温之性、臭味所主。以播百穀。故天下號神農也。


わたくしは漢文には疎い(漢文は男性の教養ですしね)のですが、頑張って読み下してみましょう。

神農、赭鞭を以て百草を鞭つに、盡く其の平毒寒温之性、臭味の主る所を知る。
以て百穀を播す。故に天下神農と號す也。


こんなところでしょうか?
この『捜神記』の記事によりますと、神農さんは、赤い鞭で草をたたくとその草がどういう性質を持っているかを知ることが出来たようです。
そして、その知識を活かして多くの穀物を播いた為、農業の神様、つまり神農と呼ばれるようになった、という事のようです。

中国にはこういう面白いお話しがいっぱい残っています。
多分、日本のそれよりも断然に多いのではないでしょうか?

とりあえず、道玄斎さんに版本の『捜神記』をお借りして、読んでみてもいいですね。
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by s-kuzumi | 2007-07-30 17:29 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2007年 07月 16日

『茶の本』 岡倉覚三著 岩波文庫

こんばんは、久住です。

やっと、本を一冊読むことができました。
またしても岩波文庫青シリーズです。

今回は、岡倉天心こと岡倉覚三氏の『茶の本』です。

この本は、日本人である岡倉天心が著者であるのにもかかわらず、「日本語訳」された形で出版されているあるいみで特殊な本です。
氏はアメリカかどこかでこの本を出版し、東洋の、そして日本の茶の文化を伝えようとしたのでした。しかし、外国人だけでなく日本人にとっても有益な書物であるために岩波書店から「翻訳」されたうえで出版されることになったのです。
私の記憶がたしかならば講談社の学術文庫でも同じ本が出ていたはずです。そちらは原文もついていたと記憶しています。

さて、内容ですが茶道の本、というイメージがタイトルからは伝わってきますが、そうではありません。茶の思想史とでもいいましょうか、そうした趣を持つ本なのです。

お茶の種類やその歴史、或いは古代中国のお茶に関する思想や、哲学や美術などが分かりやすく説明されており、非常に良書であるとおもいます。ある程度の予備知識はあったほうが良いのですが、恐らくそうした予備知識がなくとも楽しめる一冊です。

私が特に面白いとおもったのは、お茶の種類です。
最も初期のお茶は団茶といって、米や香料、牛乳などとともにお茶を団子状にし、それを煮るものであったというのは衝撃的でした。
この団茶のルーツはチベットやモンゴルみたいです。確かに牛乳などと一緒に団子にする、などという手順は、なんとなくチベットやモンゴルな気がしますよね。

一番、感銘をうけた所は、


実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。 (P74)


という部分です。
これはそのまま現代にもあてはまりますよね。
この文章は、利休が世間の評判や一般的評価ではなく、自分の審美眼に従ってものを収集した、というエピソードについての解説です。

私は粗野な人間ですから、芸術についての造詣もありません。
しかし、よいと思えるものはよいと感じることは出来ますし、気に入らないものについては気に入らないと言うことが出来ます。自賛のようでいやなのですが、どうやらそういう「自分」を基準とした芸術への評価が大事で、間違っていないこと、自信が少しもてました。

世間一般で名画といわれているものであっても、自分が気に入らなければそれはそれでよいのです。そうした自分の感性に従ったものの見方が大事だと氏は述べています。
無理をして、迎合する必要はないのですね。

このように、『茶の本』でありながら芸術一般論であり、日本史でありと内容的にもまとまりを保ちながらバラエティに富んだ構成をもつ本となっています。
茶道を嗜む人は勿論、広く一般の方々にも読んでもらいたい本です。

どの道も大変厳しいものですが、私の知り合いの茶道の先生(もう亡くなられてしまったのですが、亡くなられる前に国から正六位を授与されておりました)は、「お茶は十年続けて、初めてお茶を学んだということが出来る」と仰っておりました。
しかし、十年では実はやっと茶道の世界の入り口に入ったといったところでもあるそうです。

昨今では、結婚する前に一年か二年程度お茶を習い、結婚を機にすっぱりと茶道をやめてしまい、それで「お茶を嗜みました」と言ってしまう人も多いようですが、実に嘆かわしいことだと思います。是非、そうした方にもこの本を読んでもらいたいですね。
茶道を続ける原動力になるかもしれませんし、それで茶道をとおして何か大切なものが得られたらとても素晴らしいことだとおもいます。
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by s-kuzumi | 2007-07-16 01:10 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2007年 07月 10日

『武家の女性』 山川菊栄著 岩波文庫

こんにちは、久住です。

『武家の女性』の読了記録です。
またしても岩波文庫ですね。岩波文庫の青色シリーズは意外と面白いものが多いんですよ。


さて、『武家の女性』ですが、著者の母君である千世の思い出を著者が纏めて執筆した、という趣の本です。
幕末の水戸藩の武家の日常生活などを知ることが出来ます。
当サークルのもう一人のメンバーの母方の先祖が、水戸藩の礼儀作法指南を行っていた家柄だそうで、彼もこの本に興味を持ったみたいです。


『武家の女性』と銘打ってあるのですが、けっして「女性」という切り口だけに留まらず、「武家の生活」全体を描いているかんじです。家は女性が支えていたのですから、女性を切り口にすれば、必然的に武家の生活そのものを描くことになるわけです。

第一章の「お塾の朝夕」は特に興味深く読みました。
藩士の中には自宅で塾を開き、藩士の師弟たちを教育する場があったそうです。
子供達は、朝まだき寒いさなかに塾に、我先にと訪れて漢文の素読や習字の稽古をしたらしいのですが、子が多い家庭では武士とはいえ、懐具合が寂しいもので、なかなか下の子達までに教育をおこなう事が出来ない状況があったようです。
しかし、塾の先生は、そういう家庭には文房具を贈り、塾に通わせるように説得したとのこと。

こういう描写をみると、とても当時の日本は教育への意識が高かったことがわかりますね。
子供達は、この塾が終わると、今度は剣の稽古へと向かうわけで、今の学校と同じくらいの時間、勉強や体育をおこなっていることがわかります。

師弟間の絆も深く、互いに信頼関係を築いていたこともわかります。
こうした師弟のあり方は、今の教育現場には足りないものなのかもしれませんね。

武家の生活とはいえ、幕末の水戸藩ですから、きな臭い事件についても描写されていました。例の天狗党とかですね。幕末に関心のある人にもお勧めできる本です。

日常生活の中での武家の生活が描かれているため、本当の武家の姿がよくわかります。
江戸時代の入門書として読んでも面白いかもしれませんね。
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by s-kuzumi | 2007-07-10 11:04 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2007年 07月 09日

『思考の整理学』 外山滋比古著 ちくま文庫

こんばんは、久住です。

今日は『思考の整理学』という本を読みました。
著者の外山さんの本は『異本論』・『古典論』などを過去に読んでいます。
軽妙な語り口と、含蓄深い面白い内容が外山氏の本の一つのウリです。

この『思考の整理学』という本は、もう20年も前の本なのですが、なぜか再版がかかっていて、近所の本屋さんで、ポップつきで紹介されていたので、つい買ってしまいました。

本屋さんの良し悪しは、実は店員さんがてづくりするポップに表れている側面があると思います。
この本のポップのあおり文句は

「もっと昔によめば良かった……」

です。この文句が大きく書いてあり、内容・感想が小文字で書いてあるポップでした。
ポップがある、というのは店員さんがこの本を読んだからであって、「読書好き」な店員さんがいる書店は、やはり本のチョイスや見せ方に一工夫を感じます。
近所の書店は、ごくごく普通の書店なのですが、文庫本のコーナーだけは妙にこだわっていて、のぞくたびに面白そうな本が見つかります。
面白そうな本のナビゲーターが、実はポップなのです。

ただ単に品揃えが良いとかとは違う、書店のあり方がこのポップからみてとれる気がします。
他のコーナーはむしろ品揃えは悪いくらいで、雑誌がメインの本屋さんですが、何故かすみっこの文庫本コーナーは、ポップがたくさんあって、他の書店の品揃えとは一線を画しているのです。こういう書店はいがいと貴重なのかもしれませんね。ぜひ、この文庫コーナーだけは、このままの路線でいって欲しいと思っています。


さて、肝心の本の中身ですが、簡単にいってしまえば「想像的思考の為のハウツー本」みたいな感じですね。
わりとたくさんある「論文の書き方」みたいな感じです。
ただ、あまり「~して、~する」みたいな具体的な作業について、というよりも、心構えやスタンスに関する記述が多い感じです。

何か書こうとする時、テーマは一つだけでなく、三つ程度揃えておいた方が良い、と言った実践的なアドバイスや、アイデアやテーマを人に話す時の注意点、そして「ほめる」ことの効能なんて、話が面白かったです。

大学の教師は、学生が持ってきたアイデアやテーマを頭ごなしに否定せずに、そこからモノになりそうなものを見出して、示唆してあげる事が必要になるわけです。先生に否定されてしまって、せっかく潜在的に良いアイデアを持っていたのに、アイデアが「死んで」しまうケースも多々あるようで、安易にまだアイデアが固まる前に先生や先輩に、内容を話す事を戒めたりしていました。

ただ、実際の大学生・大学院生は、それでも発表の持ち回りや卒業論文など具体的な〆切の存在する中で、活動しているわけですから完全にアイデアが固まってから、話す、というのは実際問題として難しいようです。

あと、先生との相性なんかも大きなポイントとなりますよね。
わたし以外にここで、記事を書いてくれてる人は、某大学の大学院生という肩書きなのですが、絶望的なまでに先生にいじめられていて、どうしようもないそうです。

何か発表の場があって、そこで自分の思い付いたアイデアを元に発表してみる。すると「まだ練り込みが甘いけれども、~の部分は面白い。~を深く掘り下げていってみてはどうか?」というような、親身のアドバイスが先輩方からは貰えるそうです。
先輩といっても、同じ大学院生から、その道で生活をしているプロまで様々な人たちで、概ね厳しくも好意的な意見をもらうそうなのですが、それが担当の先生に見せると一変して「相手にされない」「何もアドバイスや具体的指導がないにも関わらず否定のみされる」というようなことが、日常的におきるそうです。

彼の話だと、彼の担当の先生は指導を行う人間を選別している、とのこと。
つまり同じ学費を払っているのにも関わらず、指導を受けられる学生と、受けられない学生がいるらしいのです。
従順であるか、或いは男であるか女であるか、といった観点から明確な差別が行われているそうで(先生は女性がお好きなので、研究室は彼のハーレムだそうで、数少ない男である知り合いは、邪魔者扱いみたいです)、この話が本当だとしたら本当に嘆かわしいことです。


ともあれ、この『思考の整理学』は、こうした個々の特殊事例にこそ対応はしていませんが、何かアイデアを生み出したい、アイデアを形にしたい、という人は、一度読んでみると面白いかもしれません。
ページ数もそんなに厚くなく、移動時間に気軽に読むことが出来るのでお勧めです。
アイデアを出す、勉強をする、というのは頭の良し悪しというよりも、実は技術的な要素が強い事が良く分かりますし、ちょっとやる気が湧いてくる、そんな本です。

こうしたわたしの読書感想文が、本屋さんでのポップのような効果がもてたら、とても嬉しいですね。
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by s-kuzumi | 2007-07-09 22:28 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2007年 07月 08日

『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル述 岩波文庫

久住です。

先日の「新陰流」の本は無事読了いたしました。
付録として、実際の伝書が数ページにわたって、印刷されていまして、剣の型を解説したものがあったのですが、どの技もみんなイラスト(?)が同じで、結局良く分かりませんでした。

① 仕太刀が打太刀に~

② そこで打太刀が、左前によけて~

と、このように段階的にイラストをつけて解説してくれると、一番わかりやすいのですが、昔の伝書ですからね。


今日は、また岩波文庫なのですが『日本の弓術』という本の読了記録です。
非常に薄い本で、ヘリゲル氏の文章は70ページに満たない程度の分量しかありません。
お値段も500円でおつりがきます。ちょっとした移動時間に読むのには最適ですね。

ざっとあらすじを。

大正年間に日本に大学講師としてやってきたヘリゲル氏は、日本の心は「禅」にあると考え、「禅」と関係の深そうな習い事として、弓術を習う事を決める。
そして阿波研造氏に入門し、弓術を学び、弓術を通して日本人の精神を学んでいく。


というような内容となっています。
阿波氏の指導は厳しく、「無心になろうとする事自体が無心ではない証拠である」といった調子で、ドイツ人であるヘリゲル氏は困惑するのですが、これはヘリゲル氏がドイツ人であるから、というのはあまり関係がないようです。
実際、今のわたしたちも阿波氏の目指しておられた弓を射る事が出来る人は、本当に稀なのでしょう。しかも阿波氏は「的に当てる」というある意味で、弓道の一大目標すら重視していなかった事がわかります。

阿波氏の達人ぶりは、次の一節が雄弁に語ってくれます。


先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と二本の矢を執った。第一の矢が射られた。発止という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこまれた。先生は私を促して、射られた二本の矢をあらためさせた。第一の矢はみごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈の中たってそれを二つに割いていた。 (47ページから)


先日、テレビを見ていた時に、アーチェリーの凄い技で、「ロビンフッド」というものがあることを知りました。矢を二本射て、一本目の矢筈に第二の矢を打ち込む、というものです(ウイリアム・テルなんて名前の技はないのでしょうか?)。
韓国の名人が、何度か挑戦した末達成していたようですが(それも素直に凄いと思うのです)、上記の描写では、阿波氏は暗闇の中で同じことをしているのです。明かりはわずかに蚊取り線香のものだけで、です。

本の後半に納められている「ヘリゲル君と弓」で、実はあれは偶然だった、と阿波氏が述べていた事が語られるのですが、それにしても全く凄いことだとおもいます。

わたしの知り合いのお嬢様が、大学で弓道を習っている、という話を最近聞きました。
お嬢様は、夏休みの間でも腕の筋力を衰えさせないために、ゴムのチューブを引っ張ったりとそういう修行を行っているそうです。聞いた話しですと、そういう鍛錬の仕方はわりと一般的に弓道の世界で行われるようです。

しかし、阿波氏は、力んだ射を戒めていたことが、この本によって分かります。
筋力ではなく、心で弓を引くのだそうです。
一見すると、非合理的で近代的ではないのですが、それが実際に一発で「ロビンフッド」と同じ事を暗闇の中でおこなってしまうエピソードを聞くと、そういう近代の合理的なもので解釈出来ない「何か」が、昔の武道家、武術家にあったと思えてしまうのです。

決して近代の武道や弓術を否定しているわけではないのですが、わたしは個人的に、そうした「何か」にひかれてしまうのです。

『日本の弓術』という本の紹介のつもりだったのですが、阿波氏の弓術に焦点がうつってしまいましたね……。
ともかく、昔の「達人」と呼ばれる人に触れてみたい人は、必読の書だと思いますよ。
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by s-kuzumi | 2007-07-08 03:37 | 読書 一般図書 | Comments(0)
2007年 07月 04日

『兵法家伝書 付・新陰流兵法目録事』 岩波文庫

久住です。

今日、二冊買ったうちのもう一冊がこの本です。
実は、前々から欲しいと思っていたのですが、近所の本屋さんにはおいてなくて、久々に遠出をしたついでに大きな本屋さんで買ってきました。

内容自体は、例の「思想大系」シリーズのものと同じだそうです。
が、注を増やすなどして読みやすくなっているみたい。
そういえば、『五輪書』もそうでしたっけ。

まだ全然読めていませんが、すこし読んだかぎりでは、大変に面白い本です。
こういった本は、読んでいてたのしいですね。

殺人刀(せつにんとう)なんて物騒な名前の章があるのですが、読んでみると実はそんなに物騒ではない事に気が付きます。

万人を苦しめる悪を剣術を以て殺す事は、万人を救う事である。
よって、人を活かす剣である。


ということですかね。

明日くらいには全部読み終えたいとおもいます。
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by s-kuzumi | 2007-07-04 23:51 | 読書 一般図書 | Comments(0)