2009年 02月 24日
道玄斎です、こんばんは。 今日は、お昼過ぎからちょっと遠出をして、戻ってきてから書き物をして、そいつを郵便で出す、という結構めんどくさい一日でした。添付ファイルが通用しない事もこの現代に於いてまだまだあるようです。 で、結局、郵便は最終便ギリギリで出しました。郵便局って八時までやってるのね。 というわけで、滅茶苦茶久しぶりの読了記録。 「ノベルゲームと関係ねーじゃん」と言う勿れ。ゲームシナリオのライティングなんかにも大いに関係のある本だったように思います。 この本自体は、かなり昔に「面白い本があって、読んでいる」とちらりと名前を出したように記憶していますが、本が常時積み上がった部屋で生活をしていたりすると、読みかけの本がどっかに行ってしまう、という事がままありまして……。 先日、書庫の整理をしたらひょこりと出てきて、今日も移動時間なんかに読んで読了。 本のタイトルから、「文章指南の本」と思う向きもあるかもしれませんが、さにあらず。 読みやすい文章とはどういうものか? 一方で読みにくい文章とか何か? 翻訳に関する諸問題、日本人の作文下手はどこから来るのか? など「文章」にまつわる話が沢山詰まった良書。聖書の欧米人に於ける作文に及ぼす影響なんかもかなり興味深い話でした。 一本の大きな本、というよりは、一話につき6~10ページほどの文章にまつわるエッセイ集といった趣です。著者は英文学・英語教育に精通している先生でもありまして、却って日本語を専門にしている先生の書いたものよりも鋭い視点で文章というものを捉えています。 今、見てみると、本の後ろには「¥450」とシールが貼ってあって、その下に「BOOK・OFF」なんて文字が。 多分、結構前にブックオフで興味を持って購入したっぽいです。 本筋からは離れてしまうのですが、私は「本は購入する」ようにしています。図書館で本を借りる、というのはどうしようもない場合(既にして入手不可のものとか、貴重書など)はそれはそれとして、どうにも読んでも記憶に定着しない気がするんですよ。 それに、私の場合、読んでいて気になった部分があると、(文庫の場合は特に)本の隅っこを折って目印を付けたり、或いは鉛筆で線を引いたり、チェックを付けたりします。図書館の本はそういう事をしちゃ駄目ですからねぇ。 これからお話しようと思っている、この本の内容も、私が付けた折り目を元に、読書した記憶を辿るわけですな。 著者である所の外山氏は「何でもいいから書いてみなさい式」の幼年期に行われる作文教育が、我が国に於いて上手い文章の書き手の少ない理由の一つとして挙げています。 そもそも、自分自身の記憶を辿ってみても、国語の先生が上手な文章を、或いは印象に残るようなフックのある文章を書いていた事は皆無です。 まぁ、私自身、「上手い文章とは?」というどえらい問題を語る資格があるのか、という大前提の問題がありますが(こうやって駄文を書き散らかしているしね)、そこはそれ、割り切って書いていく事にしますw 著者は「型を覚えさせる事が大事」というような主張をなさるのですが、これは私も大賛成です。 別に外国の真似をしろってんじゃなくて(アメリカなんかは、こういう文章の型を覚えさせるのが国語教育の大事な要素になっているようです)、最低限の型があって初めてオリジナリティが出てくる、という考えです。 昔、やはりどなたかの本(もしかするとこの著者かもしれない)で読んだのですが、そこにも「何事も型が大事だ」と書いてありました。更に、印象に残っているのは「型が出来ているから、型を壊して“型破り”な事が出来る。一方で型がないと“型無し”になってしまう」という趣旨の文章。 私も最近、特に文章を書く上での「型」という問題を意識するようになっています。 いや、意識していても自分の文章はいつものまんまだけどもw 何で、文章の型を意識するようになったのか、というと、私の所に良く論文の添削みたいな依頼が来るからです。論文といっても、エッセイと区別の付かないようなものではなくて、一般的な学術論文の類。 で、博士課程に一応身を置きつつ、これから学術の世界に打って出ようとする人の論文を読んでも「何だこりゃ?」と思う事が屡々あるのです。 敢えて、学術論文(人文系だと思って。理系は分からん)の型を示すとすれば、それは三拍子になると思います。つまり、 ①「結論」 ②「論証」 ③「結論」 という順番の型です。 勿論、好みやスタイルというものは個々人であると思いますし、こうした型に囚われずに文章としても素晴らしい論文を書く方も大勢いらっしゃいます。 だけれども、自分が経験したり考えたり、人の物を読んだりして感じた学術論文の基本型はこの三拍子になるのではないかと思うのです。 最近、私の元に添削依頼がやってくる論文は、こういう型を持っていません。 あわてて付け加えておきますが、私は人の文章に添削出来るような、そんな大層な人じゃありやせんぜ? だけれども、半ば一方的に送られてくるんだからしょうがない。 で、どういう論文が送られてくるかってぇと、先ず序として、なにやらゴニョゴニョと先行する研究史の纏めみたいなパートがあって、何だか良く分からないままに、論証パートが始まって、かといって結論部がその論証の結果を示すものでもなくて、何だか更に新しい結論が導き出されたりして、最後の跋文では「紙幅の都合で……」云々云々、というタイプ。 あちらさんは私にそれなりの信頼度を以て、添削を依頼してきているわけですから、私も全力で自分の考える所を明らかにして、フィードバックしてやらねばなりません。 ですので、「最初に結論を述べて、論文の全体像が見えるようにしろ」と多少厳しい言い方になってしまうのかもしれませんが、主張しております。 個人的に、結論部が分からないまま、論文のような文章を読むと、何だか足下が危なっかしいというか、どこに行くのか分からない妙にフワフワとして落ち着かない気持ちになるのです。最初に結論を示し「終着点はここですぜ」という主張があれば、後は安心して読める。 で、最初に示した結論がどうして導き出されるのか? という論証パートを経て、最終的にやっぱり結論は○○です。という再確認をする。やはり、この型が私は一番学術的な論文には合っていると思います。 勿論、先行研究の問題を取り上げるのは大事な事ですし、それが無いと説得力もゼロになってしまいます。けれども、そうした部分に気を取られ、却って論文そのものが分かりにくい何だかヘンテコな文章になってしまっている事が多い気がするのです。 これって、もしかすると、作文教育なんて殆ど行わない我が国の国語教育であっても、誰しもが習う「起承転結」という文章作法に根本的な問題があるのかもしれません。 それを我々は(と一般に敷衍してますが、きっとそうだよね?)何でもかんでも「起承転結起承転結」とお経の様に言われてしまったので、結論は最後に持ってくる、というやり方が、染みついてしまっているのかも。 ただ、これも何度も書いてますが、この起承転結って元々漢詩の「型」なんですよね。漢詩を書く文には便利かもしれないし、適切な型であっても、「現代」の「事実を伝えるタイプの日本語文章」を書くにはあまり適していない型なのかもしれません。特に論文とかでは。 つまり、起承転結が適切な文章と、適さない文章がある、という事ですね。 漢詩ってのは、ある種の「ドラマ」な気がします。 五文字四行だったりの文章に、世界を与えて、ドラマを見せる。そういう或る意味でドラマチックな文章ではないかと愚案致します。 だからこそ、実は「起承転結」型は、ドラマを描くノベルゲーム/サウンドノベルにも適用可能なわけです。うんと単純に一般的なハイスクール恋愛アドベンチャーを例にしてみましょう。 ①朝、学校に行く途中の曲がり角で、食パンを加えた女の子にぶつかる。ついでにパンツ見える。殴られたりと、暴力的な被害に遭う主人公。教室に着くと「転校生が来るぜ」という話題で持ちきり。何と転校生は朝ぶつかった(そして殴られた)あの娘じゃないか! ②朝ぶつかった事が縁になって(プラスして、朝の女の子は、何故か主人公の周囲に空いた席があって、そこに座る事になる)、少しづつ親密になっていく主人公と女の子、というかヒロイン。 ③このままラブラブ展開一直線か? と思わせておいて、ヒロインには何か悩みや過去に何かあったらしい事が分かり、波乱の展開に。 ④実は、転校生は、主人公が幼い頃仲良くしていて、今も夢の中に出てくる名前も忘れてしまった女の子だったんだ! 何故、そんな大切な事を主人公は忘れてしまっていたんだ? そう、そこには主人公とヒロインの間にとても悲しい出来事があったからなのです。だけれども、主人公は記憶を取り戻し、「あの時、守ってやれなかったけど、お前が好きなんだ!」と告白。二人ともそこでようやく過去の柵から解き放たれ、ラブラブハッピーエンド。 と、まぁ、こんな感じw 伝えたい事は分かるでしょ?w で、大事なのは、①②③④が、起承転結に対応しているという事。 逆に、こういう(というにはあまりにもベタ過ぎるけど)ドラマにおいて、結論が先に出てしまったら、全然面白くないというか、ドラマにすらならないという。 今の例で言うと、朝ぶつかった時に「お前……○○じゃないか!」と一発で思い出して、一瞬でアベックになってっしまうというヤツです。そんなゲームはないよねぇ。勿論、「結」か? と思わせておいて実はそれが「起」だったという可能性もあるわけですが。ああ、そうだ。「ぼたんゆきタイプ」がそういう展開をするんだったw 久々の『ぼたんゆき』への言及ですな。 さぁって、何を書いていたんだか分からなくなってきたぞ……w そうそう、日本の文章の問題でした。 だから、ノベルゲームで「起承転結」というのは或る意味で、スタンダードな型なわけですね。 一方で、新事実をお知らせする「論文」はこんなドラマチックな展開である必要な無かったりします。要はその新事実がちゃんと読み手に伝わるかどうか。問題はそこです。 ちゃんと内容も伝わって、その上でドラマチックで読んでいて興奮してしまうような、そういう優れた論文もあるっちゃあるんですが、そういう事が出来る人は本当に希。下手すると訳の分からない、電波系の文章になってしまう恐れだって十分あるわけです。だったら、最初っから型を守って、先ずはスタンダードに最も確実に相手に伝わる文章にしようじゃないか、その上で、一旦作った型を破って、「情報伝達」と「文章の美しさ」が両立するようなものを、少しづつ確立していったらどう? というのが私の考えなのでした。 だから、送ってもらった文章に、畏れ多くも結構駄目出しをしてしまったりします。 いったいてめぇは何様だよ? という事が聞こえてきそうですが、その責任の半分は私に送ってよこした方にもあるとおもふw ここらへんで、話を『日本の文章』に戻していきましょう。 「どんな偉い人の文章でも、おもしろくなければ三行で投げ出すことができる」とい一文がありました。これはスピーチと文章に関わる章での文章なのですが、ここまでさっぱりと書かれると却って清々しいですねぇ。なんか「名作」とか「偉い人」が書いた文章となると、無理をして読んで、結局なんだか良く分からなくて、ある種の「苦行」みたいになる事が屡々。でもって分からないのは自分の頭が悪いせいだ……と思いこんでしまうのですが、偉い人だろうが何だろうが、「宜しくない文章」を書く事があるわけです。 翻訳の章とも重なってくるのですが、所謂「名作」と呼ばれるもので、私がどうしても読めない本があります。『失われた時を求めて』です……。いや、各巻のサブタイトルとかを見ると、んもう私のモロ好みな感じで「うわっ、今すぐよみてぇ!」と思ってページを繰るのはいいんですが、30ページも読むと辛くて辛くて。 で、「もう少し発酵するまで置いておこう」なんて考えて、暫く放っておくと、今度は読んだハズの30ページ分の内容が全て吹っ飛んでいる。 それで、また読み直すと、やっぱり30ページとか、頑張って60ページくらいまで読むんですけれども、やっぱり辛いので置いておく。そうすると読んだ部分の内容が吹っ飛んでいて、最初から読むんだけども……。 この無限ループをもう、15年くらいやってますw 私の読んだのは勿論、訳本です。プルースト研究の第一人者の方が書いた訳本。だけれども、『日本の文章』に勇気づけられて敢えて言ってしまえば、きっとこの訳者は、「宜しくない日本語」を書いている! とおもふ……みたいな……?w や、真面目な話、多分「訳」としては、ヘタクソなんだと思います。だって、日本語を母国語として、それなりに色々な本を読んできたりしている私が読めないのですから。って書くと何だか自信過剰な人みたいで厭ですねぇ。というか、普通に日本語を使って生活している人が読めないってのは、どうにもねぇ? 興味があれば、是非筑摩文庫の『失われた時を求めて』、読んでみて下さい。私の言った事の意味が少し分かるんじゃないかな、と思います。単純に私の頭が悪いだけ、だったら厭だなぁ……w その他にも面白く、興味深い章は本当に沢山あるのですが、流石に長くなってきたので、あと一つでやめにしましょう。 それは「後と後の連結のついて述べた国語辞典が無い」という問題です。落ち着いて考えれば、そこまで言葉を規定するのは不可能に近いから、そうしたモノがないんでしょうけれども、ちと思い出した事があったのです。 そう、それは中学三年の初夏の事でした。 私の中学校は、修学旅行が三年に上がるとすぐに実施されます。実質二年生の時からコツコツ準備をしているわけです。で、三年になりクラス分けがなされると修学旅行の班決めが平行して行われ、あれよあれよという間に、京都に居るというw で、卒業文集に生徒達が書く文章の内容は大体「部活」もしくは「修学旅行」についてです。 私もその例に漏れず修学旅行を卒業文集のネタにしました。ほら、だって部活って言っても囲碁将棋部だったし……w それは兎も角、今でも覚えているのが、そのイントロ。 「今を去る事八ヶ月前、私達は修学旅行で京都に行きました」 それから、云々云々いつもの調子でどうでもいい事を書き散らかしていたのですが、何と担任であった国語教師からクレームが付きました。「今を去ること」という表現はオカシイから改めよ、というものでした。 うーん、確かに「今を去ること」っていうと、感覚的に「年単位」で時間が経った時に使うような気もしないでもないのですが、そんな事は些末な事のような気もする。 実際、卒業文集に載っている私の文章は「八ヶ月前、私達は~」と「今を去ること」だけを削除したもの(させられた)となっているのですが、「今を去ること」が付いていようと付いてなかろうと、そんなに関係ないような気がします。 こういう時に、「今を去る事」という表現は「年単位の過去を示す時に使われるものである」という辞書なり、学説なりの根拠があれば、納得出来るんですが、そうしたものを寡聞にして私は今までお目に掛かった事がありません。割と「今を去る事」なんて表現は普段何の気なしに使ってしまう事も多い言葉ですが、正しい用法(なるものがあれば)を調べるたつきが分からない。 「今」で辞書を引いても絶対載ってないのは分かるし、「去る」でやっても多分載ってないだろうな。 そうやって考えていくと、日本語ってかなりアバウトにみんな使っているんじゃないかな、なんて思うわけです。使い方の問題はともかく、そういう意識なりを持つ、という事に意味があるんじゃないかしら、とも。 もうタイピングも疲れたからこの辺で打ち止めにしますけれども、兎に角面白い本です。 文庫ですから、持ち運びも楽々。シナリオを書く人も、或いはレビューを書く人も、はたまた普段、文章を書いたりする事が多い人も是非読んで貰いたい本です。 で、もし、詳しい方がいらしたら「今を去る事」の正しい用法を教えて下さいw それでは、また。
by s-kuzumi
| 2009-02-24 23:02
| 読書 一般図書
|
Comments(2)
論文を書くときについついドラマ仕立て(君の好きな言葉でいうと「ドラマツルギー」w」)にしたくって、結論を最後にもっていってしまいます。そうすると最後に盛り上がって読者も楽しめるのではないかと思うのであります。そういう浅はかな配慮は書き手には不要なのでしょうか。別に序章にて先行研究をまとめるようなマネはしていないのですが、結論を最初にもっていこうが、最後にもっていこうが、きちんとした論証がなっていれば面白く読めると信じていたのは間違いだったのでしょうか。教えてください。ps.千景をご紹介いただきありがとうございました。恩に着まする。
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s-kuzumi at 2009-02-25 23:39
>>宣伝部長殿
つひに見つけてしまいやしたね……。 それは兎も角、論文ですが、その手の本は何冊があるので、一度読んでみると良いかもですよ? 基本は「結論」「論証」「結論」の三拍子のハズ。だけれども、ドラマツルギー(ちなみにこれは儂が揶揄して使っている言葉じゃ)重視で、形になるのならば、それはそれで問題がない。 ただ、自分が読んでいる時には、最初に「その論文がどういう方向を目指しているのか」を明確にしてくれないと、何だかフワフワして読みづらいと思うのですよ。 それに君は前途洋々たる人ではないか。 ここで問題にしているのは、そういう人ではなく、論文の成功を超自然的な何かに願いを掛けちゃうようなタイプの人だったりします。 千景はちょっと絵文字を多用しすぎておる……w 少し自粛した方がよさそうじゃよ。 |
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