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2018年 09月 24日

フリーサウンドノベルレビュー 『Merciful Girl ―マーシフルガール―』

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今日の副題「スマホノベルで上座部仏教を学ぼう!」

※吟醸
ジャンル:AI少女との対話を通して、上座部仏教を学ぶノベル
プレイ時間:全て読んで5時間前後
その他:選択肢はあれど、結末に大きな影響は与えない。アプリ内課金アリ
システム:スマホアプリ(アンドロイド、iPhone用それぞれアリ)
制作年:2018/8/31
容量(圧縮時):不明


道玄斎です、こんにちは。
こういうブログの類っていうのは、たまに更新すると立て続けに更新をしたくなってしまうものです。
そして、また更新が途絶えてしまうと次の更新までえらく時間がかかり……というパターンになりがち。


私の場合、「辞めました」と宣言しているわけでもなし、また、かなり自発的な活動(?)でやっているものですから、好きな時に好きなように更新出来るというメリットがあるのです。
ま、それはともかく、ちょっと目に留まった作品があったのでそのご紹介。2018年も終わりに近づいて、平成も終わろうという時に、やはりこの時代らしい「新しさ」を感じる作品だったと思います。
というわけで、今回は「RhinocerosHorn」さんの『Merciful Girl』です。ダウンロード情報などはこちらからどうぞ。

良かった点

・愛らしいキャラクターを通して、上座部仏教の考え方が学べる

・人生で誰もが直面せざるを得ない“死”について描き、自らの生き方を考えさせられる設定

・スマホアプリらしい、新しいノベルゲームのありかたを見せてくれている(後述)


気になった点

・広告動画が見られないことや、広告動画を見てもストーリーが読めず、再度広告を見ないといけないことがあった

・前半部と中盤~ラストに掛けては、ストーリー的つながりが薄く、内容的にもやや乖離して見える部分もある

大体、こんなところでしょうか。
さて、ストーリーは、私がまとめておきましょう。


今より少し未来のお話。
介護用アンドロイドの技術者だった主人公は、自らの夢を叶えるため、会社を辞め、個人的に究極のアンドロイド開発に心血を注ぐ。
愛らしい少女のアンドロイドを完成させ、ビッグデータと接続させた瞬間、アンドロイドは通常と違う発言や挙動を見せるようになった。それは主人公が知る「禅」の姿と重なる。
そんな折、主人公の母(育ての親。主人公は養子)の体調が悪くなり……余命僅かであることが判明するのだが……。


というようなお話し。
このサークルさんは、「原始仏教」の思想に基づいたゲーム(?)を過去にもリリースしているようで、『森の聖者』という作品もあります。『森の聖者』もノベルゲームっぽさはありますが、どちらかといえば、やはり「スマホアプリ」的な趣が強い。
一方、本作は、「ノベルゲームだよな!」という感じ。


余談ながら、画面の使い方にも違いがありましたよ。
『森の聖者』のほうは、スマホを縦にした表示で、本作は横の表示です。スマホのノベルゲーム(的)な作品でも、こういう違いがあるようです。


それはさておき、ここで、一点解説を入れておきましょう。
「原始仏教」とありますが、どういったものかイメージがつく方は案外少ないんじゃないでしょうか?
より正確に言うならば、このディベロッパーさんの作品は原始仏教というよりは、「上座部仏教」/「テーラワーダ仏教」といったほうが、私にはシックリときます。ですので、ジャンルにはそう書いておきました。


っと、全然解説になってなかった。
私達が日ごろ接するお寺やお坊さん、冠婚葬祭の儀式に欠かせない存在ではありますが、日本は「大乗仏教」です。
お釈迦様の思想がどんどんと広まり、深まっていく中で発展した(拡大解釈されたりも)仏教の1つの姿と言えばいいでしょう。
一方、タイやスリランカのような国々の仏教が「上座部仏教」や「テーラワーダ仏教」と呼ばれるものです。


基本的に、仏教の初期的な教えに従って修行生活をするお坊さんの集まりを中心にしていく仏教の在り方でございまして、お坊さんは「戒律」を守り、「修行」(瞑想など)をしていくことになります。
皆さんもご存知の托鉢は、上座部仏教の朝の定番の活動です。


近年、Googleなどの世界的な企業や大学、政府機関などの研修で、マインドフルネスというのが取り入れられていることを知っている方は多いでしょう。これは上座部仏教の「瞑想」から宗教的な色合いを抜いて、その恩恵を抽出するプログラムだと言ってもいいかと思います。


心が休まる、優しくなれる、この瞬間を生きることが出来る、などの恩恵があり、かなり前から世界的なムーブメントになっています。
何年か前……某クリスチャンノベルゲームレビュワーのお兄さんに「アメリカでも座禅が流行ってるんですよ。キリスト教の神父さんや牧師さんも関心を示していて、実践をしている人がいるんです」とお話ししたら、「聞いたことがない!」と一蹴された経験もありますが、「マインドフルネス」の日本での流行もここ数年でかなりのものになり、そうした土壌やバックグラウンドも理解してもらいやすくなりましたw


ただ、私の上記の発言もちょっと不正確でした。
というのも、「禅」と「マインドフルネス」、そして「上座部仏教で行われている瞑想」はそれぞれ微妙に違うものだからです。
日本人にわかりやすい説明として「座禅ですよ」というとすごく伝わりやすいんですが、一方で安易なカテゴライズをすることで、大切なエッセンスが抜け落ちてしまうこともあります。


ま、そうした説明はさておき、作品内容に入っていきましょう。
アンドロイドの少女がビッグデータに接続され、世界のあらゆる知見を身に着けた結果起こったのが、「悟った人」的なふるまいや発言だったわけです。


これは、理解がとてもしやすい。
というのも、アンドロイドでAIですから、「心」がないんです。より正確に言えば「自分が自分であるという見方」が存在していない。ただ、各感覚デバイスを通して情報を受け取るだけ。


私達は「私は〇〇県出身の〇〇歳、仕事は〇〇をしていて、既婚、子供が2人いる。得意なことは〇〇で苦手なことは〇〇。水虫を持っている」とか、そういう自己認識でもって、「自分」なるものを規定します。


ただし、上座部仏教では、そうした見方を否定しますし、そうした見方を離れるように瞑想を始めとする修行があるのです。その「私が思っている自分なんてない」というものが「無我」と呼ばれるものです。
本作では、アンドロイドであるがゆえに、一足飛びにそうした「高い境地」に既にして到達してしまっている、というのは「その手があったか!」と思わず膝を打ちました。


また、アンドロイドの少女は外部から入力された世界の情報を「ただ、ありのまま受けとめるだけ」です。
そこに、たとえば「好悪」などの概念は入り込みませんし、いちいちそうした反応も示しません。これもまた、上座部仏教の修行で目指されている境地です。


ですから、アンドロイドが悟りを開いた人のようになって存在している、というのはとても分かりやすく、また、納得感があるものなのです。


作品それ自体は、カレンダー消化型の体裁ではありますが、実質的に「カレンダー」である必要性がありません(たとえば、1月14日から始まって、最終日に2月14日のバレンタインがある、なんて時には、カレンダーの意味が活きてきますよね)。
寧ろ、本作におけるカレンダーの意味は、「一話一話を区切るアクセント」としての役目のほうが大きいのです。


一話はおおよそ10分程度で読むことが出来ます。
電車2~3駅分というと分かりやすいかな。気軽に1つ1つのチャプターを読んでいくことが出来る体になっています。


一方で、少し読み進めると、「次の日」に行くためには「動画再生」が必要となります。
皆さんもご存知でしょう、スマホコンテンツでおなじみの「動画を見ないとコンテンツが見られない」というアレ。約30秒くらいのパズルゲームなどの動画が流れたあとで、次のお話しが読めるように。


この動画再生によって、「基本フリーだけれども、作者に収益が入る」というシステムはスマホアプリのノベルゲームならではの仕組みでしょう。さらに、「いちいち動画再生をするのが面倒」という人は、「製品版」を買うことで、わずらわしさなく物語を読み進めることが出来るわけです。


つまり、2つの収益の仕組みがあるということなんです。
フリー版は広告再生によって。製品版は直接代金を支払う、という形です。
これはなかなかうまいやり方ですよね。フリーで遊ぶことももちろん出来ますし、その場合であっても作者にリターンが入る。今後、こういう形も増えてくるのかな。


物語の前半部は、「悟りを開いた」アンドロイドの少女と、開発者である主人公の問答(?)が中心となります。
そこだけ切り取ると、一話一話のお説法のような感じ。
人生の目的とはなにか? 何に価値を見出すのか? 慈悲とはなにか? そういったことが、上座部仏教の教えを元にアンドロイドの口から語られていきます。


多分、この辺りは予備知識がなくても問題なく読めるところだと思います。
むしろ、かなり分かりやすい喩えで解説をしてくれているので、はじめてそうした教えに触れる人でも安心です。


一方、物語の中盤~ラストにかけては、前半にあったお説法的な色彩が一気になくなり、「ノベルゲームらしい」ストーリーが展開していきます。
主人公の育ての母親の死が焦点化され、死とどう向き合うのか、残されたものはどうするのか、といった誰しもが避けられない問題が描かれることに。


アンドロイドの少女のお説法は、この段階で激減するのですが、随所で苦しむ育ての親を、仏教的なやり方で癒し、慰める様子は時折出てきますね。
お釈迦様の直弟子のサーリプッタ(舎利子っていうと伝わりやすいかな?)が、ある長者の死に際に際して行った誘導瞑想を下敷きにしたシーンなんかは、後半の仏教的な見どころの一つと言えるでしょう。


ともあれ、「死」というものに対して、その苦しみも含めて誤魔化さずに描いているところは、凄みを感じます。
それによって、私達も、自分の親兄弟、そして自分自身もいつか必ず死ぬんだ、ということを直観出来るようになっている作りは見事。「上座部仏教的なノベルゲーム」としてみれば、特に後半部分は内容的にやや乖離している感は否めませんが。


もはや後半~ラストにいくと、上座部仏教的な「死」というより、そういう何かの視点に偏らない「死」みたいな感じになっていきますね。ちょっとこうホロッとしてしまう部分も多いです。
私は「自分が死ぬとき、こうして自分を世話してくれる人はいるのか? もしいたとして迷惑をかけずに死ねるのか? 一人で寂しく死んでいくだけなんじゃないか?」など、色々プレイしながら考えてしまいました。


上座部仏教という哲学を下敷きにした作品ですから、こうしてプレイヤーに「訴えかける」ものがある作品だということは大いに強調したいところです。


恐らく、本作は「上座部仏教の思想とアンドロイドを融合させたら上手くいくかも」というアイデアを先行して作られた作品だったのではないでしょうか? 
後半の内容的な乖離はそれで説明できますし、本当の本当のラストがやや投げやりな感じで終わってしまっていたのも、力点がそこにはないから、なのでしょう。


ただ、繰り返しになりますが、「自我を持たないアンドロイドだからこそ、悟った人と同じふるまいが出来る」という本作のキモとなるアイデアには、本当にびっくりしました。
そうそう。悟った状態の説明(?)を最初にしましたが、あれだと「無機質で無感動で面白味のない人間になるってことか?」と誤解される向きもありましょう。
けど、違うんです。仏教には「慈悲」というものもあり、上座部仏教の中には「慈悲の瞑想」という正式な瞑想法もあるくらいです。なので全く無感動で無機質なのとは違うんです。だからこその「Merciful」(慈悲深い)がタイトルに冠されていると考えるといいと思います。


上座部仏教を学べる楽しい学習アプリとしての側面、スマホのノベルゲームとしての2018年的な在り方や、斬新なアイデア、そして自分自身を顧みる余地が多分にあること、などを考え今回は吟醸で。


仏教に対して思う所がある方もいらっしゃるでしょう。
けど、そうした先入観を抜いて、一度是非プレイしてみてください。どんな立場の方でもちょっと考えさせられること請け合いですよ。


それでは、また。


by s-kuzumi | 2018-09-24 13:49 | サウンドノベル
2018年 09月 23日

なんてことない日々之雑記vol.394

道玄斎です、こんばんは。
凄くブログを書くのが久しぶりです。


久々にログインしてみたら、ずいぶんとブログそのものの仕様も変わっており、今、不思議な戸惑いを覚えています。


このブログの更新をストップしていた期間(けど、ブログをやめたり、ゲームのご紹介をやめたりする、と宣言していたわけではないんですよね)、私の人生の中で、それなりに忙しく、また充実した時間を過ごしていました。
去年の今頃に、ちょこっとレビューを書いたりはしていましたけれどもね。


本当に、こうした雑記では書ききれないほど色々あって、そうした日々の中で、少し時間的なゆとりが出来そうな気配がしてきました。本当に率直に言ってしまえば、「自分で選択をする」ことでそうしたゆとりが生み出せそう、というのが正確なところです。


もし、時間的ゆとり、精神的なゆとりが生じたにせよ、以前のような更新の頻度だったり、以前と同じように、というのはやはり難しい。
時代は変化していきますし、書き手である私も10年前の私とはやはり違います。


全てのものが移ろいゆく中で、寂しさや、ある意味では展望が開けたような、そうした気持ちを今感じます。
辛かった日々も、楽しかった時も、ミントアイスを一緒に食べた思い出も、きっと少しづつ忘れ、手触りや香り、その時の気持ちも薄れていくのでしょう。


そうした、最後の時に向けて、今自分が何が出来るのか。
あるいは何をしたらいいのか。何をしていいのか。そういう部分で色々と考えることはあります。


ただ、諸行は無常なものですから、何をしたとしても消えていくわけで、素直にその時したいと思ったことをやっていく、というのが一番いいのかもしれませんね。


そういえば、先日、横浜創作オフ会なるものに、参加してきました。
基本的に私は、そういうオフ会を、このブログの名義で参加するようなことはしたくなかったのですが、10年以上たって、「たまにはいいか」みたいな気持ちで遊びに行ってみました。


やっぱり、一時期あった「ノベルゲーム全盛期」とは全然雰囲気が違いますよね。
ノベルゲームの創作や享受も、他の活動と相対化されているなぁ、と思います。いえ、元々そうあるものなんですが、それをとても強く感じた、ということなんです。


同人のノベルゲームも、フリーのノベルゲームも取り巻く環境が、この10年で大きく変わりました。
享受のされ方や、享受する層も変わっています。ツールの変化だってあります。けど、それは当たり前のことですよね。


ただ、変わらないものも、同時にあります。
それは「作られた作品が確かに存在する(存在した)」という事実です。
ある瞬間に作られたあるゲームは、その時点で確かに存在していたし、その時点でしかるべき場所にあった、ということです。


上手くまとめられないんですけれども、「ノベルゲーム」なるものが好まれていた時期は確かにあって、今も少し規模は小さくなりましたが、いまだにその創造や享受の営為は行われています。
それを、出来るところまで追いかけてみる。また「ノベルゲーム史」とでもいうべきものの中で位置づけられるとしたならば、それは結構面白い試みかもしれません(少なくとも私にとっては)。


本当にそういう気持ちになるかわからないけれども、また、たまにピンとくるノベルゲームのお話しが出来たらいいなぁ、なんて思ったりしてます。


とりあえず、久々の近況報告ということで、少しだけ記事を書きました。
またお目にかかれますよう。


by s-kuzumi | 2018-09-23 17:32 | 日々之雑記