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2008年 06月 06日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.5

道玄斎です、こんばんは。
前回の講義からかなり時間が空いてしまいましたね。意外と読んでくれている人がいるみたいで、こういう怪しげな活動も少しは役にたってる部分もあるのかな、と思っております。

んじゃ、予告通り最終回、いってみよっか。


■おさらい

今回を含め、全五回の講義になってしまったわけで、いちいちおさらいをするのは面倒なのでリンクを張ってお茶を濁します。

第一回目
第二回目
第三回目
第四回目



■批評との関わりから

前回、テクスト論なんて小難しい話を持ち出してみたわけですが、結局「正しい批評なんて存在しない」という極々ありきたりの結論に達したのでありました。
フォローを少しだけしておくと、テクスト論は「好き勝手読んじゃえ」っていうのではなくて「こう読まざるを得ない」とか「こう考える事で他の~の解釈も変わってくる」とか、それなりの基準があって、使用される文学理論のようです。「俺はこう読む」っていうのがあってもいいけれども、完全にそれだとテクスト論としては成立しないんじゃないかと。
うんと簡単に言っちゃえば、「ただの感想」とはちょい違う、くらいに思って貰えればいいのかな。

さて、オタクな文化の方に話しを戻していきましょう。
某漫画(アニメ)で「オタクは自分の推論を自信100%で語る」というようなネタがありました。勿論、ここで言う推論とは「あのアニメの~の部分は~に影響を受けていて……」といったそういう類のものです。
オタクも究めてくると、単純に声優さんを調べたりって所に留まるのではなくて、監督やら作画やらそういう人たちを含めたキャスティングに注目していきます。最も分かりやすい所で言えば、「あのアニメは~が作っている」みたいに、製作会社に注目したりとかですよね。

だから、実はオタクの推論って意外と「自分勝手の適当な発言」ではなくて、割と根拠のある、言ってしまえばテクスト論的な発言が多いんじゃないかと。
そう、テクスト論は、作品を個別にぽんっと存在しているものではなくて、先にリリースされた作品からの「引用の織物」と見なすのでした。「必ず元ネタがあるハズだ」と考えて、それを推理する行為は非常にテクスト論的に思えます。

中には、「敢えて引用をバラす」ような作品があるのもまた事実。
普通、分かりにくいものの中から「これは~の引用かな?」と半分手探りで探していくわけですが、作品自らが「これは、~からとってますぜ」とバラしてくれる事もあります。
そういうのは、一読(一見?)すれば分かってしまうのですが、やっぱり或る程度は「これはアレから取ってるな」という推理の手順があると、ちょっと嬉しいですよね。それがほんのひとさじの知識で分かるものだったとしても。



■京都アニメーションと引用の問題

んで、前章の内容を踏まえて、京都アニメーションについて。
京都アニメーション、通称京アニ。 アニメに詳しい人にはお馴染みの製作会社です。圧倒的なクオリティと遊び心のある演出で近年、一気に知名度を高めた会社ですね。
今、ちょろっと調べてみたのですが、非上場ですし、資本金も一千万円と、割と小さな会社である事が分かります。それにも関わらず、ここまで知名度が高いのは、その丁寧でクオリティの高い仕事と、その「遊び心=センス」に依拠する所が大きいのではないかと。

問題としたいのはその「センス」の部分です。
私自身そこまでアニメに詳しいわけじゃないんだけど(じゃあ、アニメの事なんて書くなよ、と言わないで……)、ざっと京アニの作品を見てみて、気付いたのは「引用」が上手い、という事。

それは、アニメなんて全く観ません観るのはニュースだけですアニメなんて子供の観るモノですいいかげん大人になったらどうですか? 的な人が、観ても気づかないようなレベルの引用です。だけれども、しかし、「ちょっと流行もののアニメくらいはチェックしてます。いい歳ですけれども、すみません」みたいな人にはすぐに「ピン」とくるような、そういう引用の仕方をしているんですよね。
これって、物凄い重要な意味があるんじゃないかなぁ。

前章で、分かりやすいものでも「自分で推理」して出てきた解答は気持ちいいと書きましたが、まさにそのタイプです。しかも、ちょっとした知識があれば分かるレベルでの引用なんです。
いっちゃん分かりやすい例を挙げてみましょうか。

例によって『涼宮ハルヒ』でいきます。この例に対する批判は受け付けませんw
んで、アニメで「ミステリックサイン」というお話があったわけですが、その際、必殺技(?)を繰り出す小泉君が「ふもっふ!」と叫んでいます。
この「ふもっふ」なんですが、同じく京アニが制作した『フルメタルパニック ふもっふ』から取っていると思しいんですよ。というかほぼ100%そうでしょう。これは京アニが好きな人はすぐに「ピン」と来るはずですし、京アニが制作したかどうかなんて知識がなくても『フルメタルパニック』というアニメを知っていれば「ピン」とくるネタなんですよね。
なんだけども、一般人には、何のことだか分からない。

ちょっとぬるめのオタクくらいでも読み解ける「引用」という名の暗号が入っているわけです。
これは盛り上がらないわけがない。或る意味で読み解ける人を限定しながらも、その値が低く設定されている。更に、そうした「暗号解読」というプロセスに於いてオタク同士の絆(w)も強化してくれるというわけで、大したもんだと思いました。
これが、本当に上級者オタクにしか分からないようなネタだけになっちゃうと(そういうネタもこっそり混ぜてあるのが凄い!)、内輪だけの盛り上がりになってしまいます。盛り上がりのすそ野を広げて「初心者から上級者まで読み解ける暗号」と「上級者のみが分かる暗号」を並立させる事によって、「このアニメ会社分かってるなぁ」と思わせる効果があるんじゃないかな。



■コミックマーケットと古典文学

さて、引用にまつわる諸問題は、このくらいにしておきましょう。
んで、次にお話するのは、コミックマーケットと古典文学というお話。別にコミケじゃなくてもいいんだけども、一番有名だからね。

いきなりで恐縮ですが、今から950年くらい前にもコミケがあった、という衝撃的な事実を先ず語ろうと思います。

コミケの要件って、「一次、二次を問わず創作物」を「その為に用意された会場」で「同好の士同士」で「お披露目したり」「頒布する」ってところでOKでしょうか? 私の誤認があるかもしれないけれども、大体こんな所でしょう。

大体、今は二次創作がコミケ(を含む同人誌即売会)の花形なわけですが、こうした同人誌即売会は950年くらい前に存在していました。それは「物語合」(ものがたりあわせ)なるイベントです。もうちょっと正式に言うと「六条斎院物語合」といいます。

要は、各人が新作の物語を持ち寄って、お披露目会を開いたって事なんですが、これはもう同人誌即売会の元祖でしょう。このイベントでは、皆さんもご存じの『堤中納言物語』の中の一篇「逢坂越へぬ権中納言」という新作物語がお披露目された事まで分かっていますし、その作者が小式部なる人間である事まで判明しています。
コミケなどとの唯一の違いは、金銭の授受で物語が売り買いされなかった、という点です。けれども、当時の時代にあって、そのくらいの差異は大した事じゃなくて、良い作品は「お金を払って買う」ものではなくて、「自力で書き写す」ものなのです。
だから、ちゃんとこのイベントでお披露目された作品は書き手-受けての間で「流通」しているんですよね。

更に違いを言えば(さっき唯一の違いとかって言っちゃったけど、勘弁してね)、全員がクリエーターであり、全員が読者である、という辺りでしょうか。主催者とかは違うけれども、「各人」が新作を持ち寄ってわいわいやるイベントなのですから、全員が物語作者であり、その享受者でもあるのでした。
これは共通点なんだけども、全部一見「新作」に見えるけれども、前時代の物語の影響を受けたものが多数あった事想像に難くありません。ですから、厳密に言えば一次創作かもしれないけれども、その内部には多分に二次創作的なニュアンスも含んでいるんですよね。

こういう事が可能なのも、著作権という概念が希薄(というか無い)からなんでしょう。
著作権を守ろう、ってのは別に悪い事じゃないけれども、それがいきすぎてしまうと、名作なんて出てこなくなってしまう。ま、これは余談ですね。

まぁ、兎に角この講義全体で言いたい事ってのは、オタクな文化と古典の時代から近代まで続く「創作」の文化っていうのは、非常に近しいものがあって、「実はオタクが伝統の体現者」だというある種の援護射撃をしたい、というわけですw



■そしてノベルゲーム/サウンドノベルへ

つらつらとあれこれ述べてきましたが、「創作物」とかをそのまま「ノベルゲーム/サウンドノベル」に置き換えても、結構すんなり当てはまるんじゃないかと思います。
こうしたゲームの主体は、結局の所「文章」(狭義のシナリオって言っていいのかな?)がなわけで「物語製作」という意味に於いては同じだからです。 実際、シナリオライターよりも絵を描いている人の方がお金が多く貰えるなんて事があるわけですがw

結局、物語の歴史と同じように、サウンドノベル/ノベルゲームに関しても、名作が出てくると、それを引用するような作品群が形成される。そしてまた突出した作品が出て、それらが引用されて……という状況があると思われます。これは別に商業/同人を問わず言える事ですよね。

ただ、商業だと結局「お金の流通」になってしまいますし、「お金になる」企画じゃないと通らないわけで、結構シビアなモノになっていると予想されます。どういう事かと言うと、同人とかフリーでリリースしている分には、「或る程度の自由さ」がそこに加味出来るんですよね。
これは同人の良さの一つでもあるのですが「好きなものが好きなように作れる」という問題と不可分です。ところが商業だと「売れる為」には自分の好みを捨てないといけないような局面もあるんでしょう。たまに商業作品をプレイして、イライラした事ありませんか? 「また、このヒロイン属性かよ」と。私は結構あるんですよね。

ツンデレが流行れば、猫も杓子も「ツンデレヒロイン」をヒロインの中に入れてくる。
ツンデレな要素を盛り込みつつ、マイルドに仕立てるというよりは、徹底して「ツンデレ」なんですよね。結局、それはユーザーの求めるものであり「お金になる」という意味ではいいのかもしれないけれども、物語って或る要素を「引用」して利用する分にはいいんだけども、その要素に振り回されてしまうと、どうしようもなくなってしまう面もあるように思えます。
要素をコントロール出来るか、要素に振り回されてしまうか、っていう問題ですが、しっかりと手綱を握った上で最大限の作品を作るクリエーターの方には本当に頭が下がります。

こういう、事情があって、もう少しプリミティブな物語発声/物語製作/物語流通のあり方を魅せてくれるような、フリーのノベルゲーム/サウンドノベルが私にとっては溜まらなく魅力的に思えるのでした。

今の商業美少女ゲームのフェーズを、文学史に当てはめて見ると鎌倉~南北朝くらいの「鎌倉時代物語」のフェーズに入っているな、と感じます。
これは結構危機的な状況で、所謂一つの「衰退期」なんです。勿論、素晴らしい作品がちょこちょこと出てきてはいるのですが、シーン全体で考えてみるとどうにも衰退しているような気がしてならない……。
んで、文学史の通りに事が進むのならば、全体としての規模が縮小して、今の商業ゲームとはまた違った形に変化した上で(文学史で言えば、物語が衰退して、御伽草子というフェーズに入る)、細々と続いていくというわけですが、私の予想では、新しいフェーズがいつやってくるかは分からないものの、そうした新しい動きは「同人」だったり、いつも取り上げている「フリーのノベルゲーム/サウンドノベル」から興るのではないかと、そう思うのです。

フリーのゲームをひたすら探して、ひたすらプレイして、「これは……」と思えるような作品を取り上げていく、というのは、実は変化してく「ノベルゲーム文学」の最先端を追っている、という行為だと思っています。

連綿と続いてきた日本の文化をなぞるようにして、ノベルゲームは進化していきます。
もしかすると、「次」を予感させるようなゲームが出てきているのかもしれない。
兎にも角にも、私はこうやって、或る意味でくだらない事に一生懸命になって、日本文化(もっと正確に言えば、日本文学?)とノベルゲーム文化(ノベルゲーム文学)の両輪を見つめて、これからもやっていこうかな、なんて思っているのでした。


とまれかうまれとくやりてむ。


P.S1
気が向いたら、もっとノベルゲームに特化した「ノベルゲーム論」なんてのもやろうかと思っています。気が向いたら、ですけども。


P.S2
これまでの講義は、話半分、という事でw 専門家(いるのか?)から見たら至らない点が一杯あるかと思いますが、話を単純化していたりしますので、細かい間違いなどはご容赦願います。


ではでは。

by s-kuzumi | 2008-06-06 18:37 | サウンドノベル
2008年 04月 27日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.4

道玄斎です、こんにちは。

延び延びになってしまった「ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論」の続きをお届け致します。
今日は少し前回三回分までよりも、ちょっぴり真面目な体裁を採る予定ですよ。


■おさらい

うんと簡単に纏めてしまうと、古典文学の発生の過程とサウンドノベル/ノベルゲームの発生の過程に似たものがある、とまぁそんな事を回り道をしぃしぃお勉強してきました。
もう少し補足しておくと、今「正統派」の芸術として認知されているようなものではなく(んー、例えば芥川賞受賞作とかね。私からすればそれもライトなものになってる気はするんだけども)、ライトノベルとかそういうものも、私からすれば非常に古典文学的です。
今年が源氏物語が記録上に出てきてから丁度1000年経つわけですが、こういう物語文学作品の伝統は今なお、形を変えつつも存続している、というわけです。



■ライトな文化と「引用」

前回かな?確か『はこやの刀自』なる作品が、中国由来の物語を利用して日本独自の物語を更にそこにミックスして出来た、というようなお話をしました。
何もない所からは何も発生しない、というわけで、必ず何か作品が出来る際には「元ネタ」(っていうと言い過ぎな気もするけれども)が存在しています。
それは、その作品を製作なさっている方が意識している場合もありますし、逆に意識せずに使ってしまう、なんて場合も勿論想定出来ます。

こういう影響力をここでは「引用」と言い換える事にしましょうか。
引用っていうと、「二字下げ、出典・発表年明記」なんて事を考えてしまう方もいらっしゃるかと思いますが、そこまで厳密な定義じゃなくて「Aという作品に有形無形の影響を受けたBという作品が存在する場合、BはAを引用した」と、まぁこのくらいのゆるーい定義でお願いします。

更に引用といっても、敢えて引用する「確信犯的な引用」(パロディである事が多い)だったり、気付く人だけ気付くような、「一部の人へのメッセージを込めた引用」だったり、はたまた「作者自体が自分が引用しているという事に気がついていない、無意識の引用」など、様々な形があるかと思います。そこらへんの区分けがちょっとめんどくさい所ですが、引用と一口に言っても色んなタイプがありそうだ、くらいに思っていただければ。

で、なんでここで引用を問題にするかというと、今のライトな文化が常に引用という問題と不可分だからなのです。
滅茶苦茶分かりやすい例を挙げましょう。
コミックマーケット、通称コミケ。この年に二回のお祭りは、企業ブースやらオリジナル作品の発表の場になったりしているわけですが、なんと言っても「二次創作」が花形でしょう。
二次創作の同人誌だったり、二次創作のゲームだったり、或いは二次創作の小説だったりと、二次創作が主役(的)になっているのです。
そういえば、昨日「あやかしよりまし」の二次創作のゲームについてお知らせをしましたね。
ま、それはさておき、二次創作というのは、「元ネタの引用」である、というのは今までのお話から分かっていただけるのではないかと思うわけです。
元となる作品があり、そのキャラや設定などを使い、自分好みの物語を作っていく。或いはそうした引用の中で確立していくキャラの属性なんかがあったり。
最終的に、そこから「オリジナル」の作品が生まれたとしても、やはりそれは元の作品への引用という属性を保持しているのではないかと、私は思うのでした。

ここで一点注意を。
別に、引用から生まれた「オリジナル」は価値が低いとか、そういう事を言いたいんじゃないですよね?寧ろ、そういう「オリジナル」作品が生まれてくる状況とかそういうものに焦点があるので、その点誤解なきよう。
寧ろ、私自身は「引用の織物」的な作品が大好きです。
そういえば、最近は「ある作品の音楽だけだったり、或いは印象的なフレーズを『引用』し、全く別の作品の引用物に組み合わせて、オリジナリティのあるものを作る」なんて事も行われていますよね。ニコニコ動画とかさ。
先にも述べましたが、「引用」にもレベルがあって、印象的なフレーズだけ引用するものから、かなりの部分を元ネタに依拠するものまで様々です。

こういう引用は、何も作品の中だけで行われ、消費されていくものではありません。
例えば機動戦士ガンダム。「親父にもぶたれたことないのに!」というアムロのセリフがありますよね(親父にも殴られた~とどっちが正しいんだろう?)。
結構、このセリフ日常で使う人、居ませんか?w お互い共通認識がある場合、そういった符丁的に「引用」を使う事も可能なのです。
このような引用のあり方は、端から見てると「あぁ、オタクっぽいなぁ」なんて思いますが、とても伝統的なものだったりします。
そう、和歌です。

古典文学は散文であっても、おびただしい和歌が使用され、その和歌も前時代或いは当代的なものからの引用で構成されていたりします。
良くあるのが、男性貴族が女性に言い寄った際、女性は男を袖にする和歌のワンフレーズだけをぼそっとつぶやいて男に自分の意を知らせる。
そんなシーンは結構しょっちゅうお目に掛かります。或いは地の文でも、状況を説明する為に著名な和歌のワンフレーズを持ち込んで、瞬間的に状況を読者に説明する、なんて事は始終行われています。
そうね、即席で古典っぽいものを書いてみましょうか?

をとこ、われてもすゑにとぞ思へば、かへりみがちなれどつひに出でぬ

いや、本当適当に書いた文章だからアレなんだけども、本を読んでいて章が変わって、いきなりこういう文章が出てきたとします。
そうすると、「われてもすゑに」という文言から古典文学の読者は崇徳院の歌「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」を即座に想定するハズです。
ということは、「男と女が離ればなれになってしまったんだな」と状況が一瞬で理解出来る。引用が情報伝達のツールになっている、という感じでしょうか。
そもそも和歌っていうのは「本歌取り」という「引用」の技法があるくらいなので、とても引用というものと相性が良い。
尤も、現代では和歌なんて詠んでいる人は少ないですから、その代わりに印象的な台詞や文言、フレーズがこうした引用の対象になっているわけです。

例えば、これを読んでいる人が高校生か何かで、古典の宿題を珍しくちゃんとやってきたら先生に「お前、~の宿題を写しただろう!」なんて嫌疑を掛けられたとしますw
そういうい時にぼそっと「まだふみもみず」とつぶやけば、きっと先生は納得してくれますよw



■引用の限界点と想像力

さて、ここまで引用という問題を扱ってきました。
ここで、引用という問題をもう少し突っ込んで考えてみましょう。
実は、古典文学に限らず1980年代くらいから文学研究に「テクスト論」という考え方が持ち込まれ、主流となります。
リンクは、とても分かりやすい形でテクスト論を纏めているページを張ってあります。著名な古典文学の研究者が語っておりますよ。
うんと乱暴に纏めてしまうと、「作品はテクストと呼ぶ。テクストとは織物であって、全てのテクストは作者の意図を排除して、引用の織物として考えるべきだ」というような理論(思想)です。有名な「作者の死」ですね。
私自身は、そこまで「テクスト論」について詳しいわけではないので、まぁ、この章は話半分に。。
で、どうしても私はこのテクスト論なるものにある種の違和感を持っているのです。

確かに、「引用」の織物として作品を捉えるという視点は良いと思いますし、引用という問題に深く切り込んでいけるようになった、という意味ではとても成果は大きい。
けれども、作者という概念を想定しない(但し、実際に執筆した作家という概念を保持する一派もいる)というのは、何となく違和感を覚えませんか?
そりゃ、古典みたいに作者が実は誰だったのか分からないような場合には(そういえば、『源氏物語』だって紫式部なる人物が執筆したというコンセンサスはとれているものの、果たして54帖全部彼女が書いたのかといえば、それは実は誰にも分からないのです。もしかしたら同人サークル『源氏物語製作委員会』のメインライターが紫式部だったという可能性すらあるんじゃないかと、私は思っていたりするのですがそれは蛇足ですね)、それはそれでいいのかもしれないけれども、現代のライトな文化でそれをやっちゃうと、ある批評雑誌の記事を読んだけれども、「こないだあの作者さんと酒を飲んだけれども、そんな事はいってなかったぞ」なんて事が起きたりする。

実際、そういう事はままあって、私の知り合いから聞いた話しなのですが、その知り合いの知り合い(ややこしいね)がプロの作家さんだそうで、教科書だかに文章が載ったりするお人なんだそうです。
で、業者テストか何かで、その人の作品が取り上げられて「この時の~の気持ちはどういうものでしょう?」的な例の問題が出て、正答例を見た作者はびっくり。
「俺の示したかった意図とはまるで逆なものが正解になってる!!」
と。

そう考えると、作者の意図を単純に排除してしまう、という事で整合性のとれなくなる場合が、こと現代にはあるように思えますが、如何でしょうか?
しかし、テクスト論者は「それは作家としての彼の意見であって、テクスト論的な見地からみれば、周囲の引用によってこの部分の意味は~のように固定されて読めるのである」となってしまう。
勉強不足でアレなんですが、何となくそういうあたりに私は違和感を覚えます。多分、鑑賞する側と製作する側には絶対的な違いがあるのではないかと。
まぁ、兎も角「引用という視点だけ」で作品を読んでいく事は実際の所、実情に合わないんじゃないかと思うのです。

先に挙げた「われてもすゑに」とか「まだふみもみず」とかは非常に特徴的ですし、元ネタが一発で分かってしまう。
けれども、それが引用なのかどうか認定しづらいケースってのもありますよね。
しかし、割とテクスト論者ってのは、或る意味で確かめようもない推測に基づいて批評を行ったりするような気がします。彼らが言うには「そういう『読みの可能性』を探る事でテクストが豊かなものになる」っていうわけで、あれこれ考えて、自分の読み方を考えていくという事自体は私も好きです。

私は個人的にテクスト論には相容れない部分があるわけですが、作品を自分なりに解釈していく、というその立場は楽しいですし、良いと思うんですよ。学術的にそれが正しいかどうかという問題は別として。
こういう批評の態度って、そうはいっても私なんかも日常的にやってますよね。「~の場面は実は~とパラレルにあるような気がする……」なんて私も書いてますw

批評っていうのは、或る意味でそういう個人的な感想と切り離せない部分もあって、恐らく確実に言える事は「正しい批評」というものは、恐らく存在しない。みんな各々自分にとっての「正しい批評」をやってるわけで、絶対的な「正しい批評」の指針はどこにもない。
あっ、勿論、作品を貶すためだけに批評をする、っていうのは論外だからね。

特にフリーのサウンドノベル/ノベルゲームなんかの場合だと、プレイヤーと作者の位置が近いわけで、作者様に対して良いフィードバックが出来たらなぁ、とは考えますが、批評なんて言葉を大上段に振りかぶるとちょっと意味合いが違ってくる所もあるのかも。
だから、私はレビューという言葉にしてお茶を濁しておこうかな、なんてw 以前英英辞典でレビューの項目をチェックしたんだけども、レビューの方が「感想」的な意味合いが強かったハズなので、私はレビューという語を使い続ける予定です。



■次回の講義に向けて

全体的に引用について、今回はお話しました。
特に後半からはテクスト論という文学理論を考えてみたりもしましたね。

このテクスト論の負の面ばかりを強調してしまったような気がしないでもないのですが、私はノベルゲーム或いはライトノベル、はたまた漫画の文脈でユーザーが自由に論議するという意味で、とても楽しい理論だとも思っています。いくつかの問題点をそこに認めるにしても、ね。

次回は、もう少しテクスト論のお話に付き合っていただきながら、今までの講義の纏めに入ろうかと思っています。
当初三回の予定が、見事に全五回の講義になってしまいましたね……。
次は最後ですから、またノベルゲームのお話なんかも沢山出来たらいいな、と思いつつ筆を擱こうと思います。

それでは、また。

by s-kuzumi | 2008-04-27 17:47 | サウンドノベル
2008年 04月 19日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.3

道玄斎です、こんばんは。

そろそろ転職を考えようかと思います……。残業自体は構わないのですが(というか勤務時間外でないと処理出来ないものもありますからね。時間的な問題で)、残業代が支給されないとか、ちょっとアレな感じなのでw
あまりに気になったものですから、某公的な機関に問い合わせをしてみました。
雇用契約書などの記載事項を見て貰ったり、あれこれとやってみた所、やはり法的に問題があるようです。

まぁ、実際の所何でもかんでも杓子定規に法律に合わせていたら、世の中回っていかないのですが、頑張った分のリターンが、時間であれ金銭的なものであれ、少しでもあったら、と思います……。
まぁ、実際問題、毎月お給料は振り込まれているので、まだ恵まれている方なのかもしれません。ただ、帰宅時間が午前一時過ぎとかになると、流石にちょっと……。


と、ここまでが話の枕です。
愚痴っぽくなって、すみません。
というわけで、のびのびになっていた講義三回目スタートです。


■おさらい

・オタクと呼ばれる人は(割とライトな文化の)複数のデータベースを持ち、それらのデータをクロスして物事を見ることが出来る。

・日本の古典文学(=日本文化)は、実はとてもライトなもので、現在のアニメやマンガ、そしてノベルゲーム/サウンドノベルなどと共通するものが多い。


という事でした。ざっと振り返ってみましたよ。
少し補足しておくと、例えばイカニモな伝統芸能の技術保持者と同じく、いや、それ以上に「今」現在の文化的な状況を「伝統的な視点」で捉える事が出来るのが、オタクなのです。
では、早速本論に入りましょう。



■オタクの日本文化継承性

先ほど、伝統芸能の伝承者についても触れました。
彼らは、1000年くらい前(或いは800年とか、はたまた400年とか)の伝統を、保持して「保存」しています。
勿論、中には「保存するだけではなくて、新しいものを生み出さないと死んだモノになる」と果敢に新たなステージにチャレンジする方もおり、そうした方は本当に尊敬出来ます。

ここで、伝統芸能の発祥という問題について考えてみましょう。

何もない所からは、何も生まれない、というのは当然のことで、何かが新しく生まれる際には、必ずそれの元となった考え方なり芸術なりがあるものです。
このブログだって、作者様の素晴らしい作品がなければレビューは出来ませんし、先達の偉大なレビュワーの方の影響も物凄く強い。
そうした先達のお力を有形無形でお借りしつつ、このブログは運営されていたりします。

当然、伝統芸能もある日降って湧いたのではなくて、何かしらその基礎となるようなものがあるのです。
前回の講義でお話しました『竹取物語』。これが出来る前段階として『はこやの刀自』(本当はこの「はこや」の部分も漢字なんですが、ちょっとすぐに出てこないのでひらがなで勘弁してやって下さい)という作品があった、というのもちらっとお話しましたね。
この『はこやの刀自』自体も、仙人というか仙郷というかそういう中国風のストーリーが背景にあるのです。
だから、うんと分かりやすく説明すると、

中国の物語→『はこやの刀自』→『竹取物語』

となるわけです。
勿論、中国の物語に日本のその他の物語をプラスして『はこやの刀自』が出来て、更にそれに他の物語がミックスされて『竹取物語』となっています。

で、この『竹取物語』は、その後の日本の物語文学の大きなマイルストーンになりました。

そこから、さらに紆余曲折を経て、和歌なんて文化も吸収し、物語文学は『源氏物語』という或る意味で最高到達点に達するわけです。
で、問題はその後、『源氏物語』は出来映えが大変宜しい作品でありまして、「源氏みざる歌詠みは遺恨のことなり」と藤原俊成をして言わしめる事となります。
俊成は、藤原定家のお父さんですね。定家はご存じでしょうか?いまだに存続している「冷泉家」のご先祖様です。過去からの日本の文化人トップ3を挙げるなら、必ず入ってくるような人物ですかね。

一旦『源氏物語』という作品が、その地位を確立してしまうと、フォロワーというか、そうした作品も多く登場する事になります。
勿論、そうした中で、『源氏物語』の影響を受けつつも、新たな物語を作ろうとするような動きもあるのですが、それも或る意味「安易な源氏のパクリは創らん!」と源氏を意識している部分で、やっぱり既に『源氏物語』の影響下にあると考える事も出来ます。
『源氏物語』以降で、前回挙げた作品で、オリジナリティのある作品はやっぱり『狭衣物語」が一番大きいでしょうかね。

この『狭衣物語』。ストーリーも何となく暗めですが、非常に良く出来ていました。
しかも作中の和歌が又素晴らしい。
こいつは、中世期くらいには『源氏物語』・『狭衣物語』と並び称される作品にまでなりました。

このように、影響力の強い作品、というのは定期的に出てきまして、その後の作品の方向性を或る程度縛ってしまいます。
その中で、やっぱりオリジナリティの強い影響力を持った作品が出てきて……というのが物語文学の大きな流れ。



■ノベルゲーム発生の環境

さて、こういう流れ、どっかで見たことはありませんでしょうか?
そう、すっかりそのままノベルゲーム/サウンドノベルを取り巻く作品状況に似ているのです。

やっと、ノベルゲームについて色々語る事が出来る時がきましたよ。
私は良く「ぼたんゆきテイスト」とか「ぼたんゆきタイプ」という事を良く言っています。
作品の大まかな流れが『ぼたんゆき』という作品に似ているものを、そう呼んでいるわけです。
ぼたんゆき』に関しては、まぁネタバレをしてしまうと、所謂「姉妹交換」というのが、最大の特徴となっています。

亡くなってしまった姉(もしくは妹)の代わりに、妹(或いは姉)が主人公(男性)の恋人になる。勿論、男はそれに違和感を感じつつも目の前にいる恋人が本当は妹(或いは姉)である事に気がつかない。だけれども最終的にそれが判明してしまい、その時主人公は亡くなってしまった姉(或いは妹)に対してその想いを断ち切り、目の前にいる女の子への気持ちに気付く。

と、こんな感じのストーリーラインの作品が私の言う所の「ぼたんゆきテイスト」な作品だったりします。
皆さんも結構プレイしているんじゃないでしょうか??
こういうストーリーの源流として私は『ぼたんゆき』を捉えていて、それ故にの「ぼたんゆきテイスト」という発言なのでした。

こういう影響力の強い作品は、

「あれには敵わない」
「あれより良いものが出来るかも」
「あれなら、こっちの方がいい」
「あれみたいのを創りたい」

と、さまざまな「あれ」として一つの基準になりうるものです。
で、例えば「あれ以上のものを創りたい」という、読者が今度は制作者となり、また新しい一つの基準となる作品を創っていく……。
これはまさに『源氏物語』或いは『狭衣物語』を一つの「あれ」という基準として、新たな物語が生み出されていく状況に似ています。
ノベルゲームにも、こういう流れを見て取る事が可能なのではないかと思いますが、如何でしょう?


ここで、もう一度古典文学のお話にもどります。
『源氏物語』『狭衣物語』以降、物語の製作は一般的に停滞した、と捉えられています。
というのは、鎌倉時代以降も物語作品は創られ続けているのですが、それらの多くは『源氏物語』『狭衣物語』の安直な焼き直し、というそういうレッテルが貼られているのです。
だけれども、こうした物語群(ここでは、鎌倉時代物語と呼んでおきましょう)は、一つ一つ読んでみるととても面白いし、その中でも影響力が強く、その後の鎌倉時代物語を牽引していくような、作品が内部で生まれていたりもするのです。

以前、このブログで二回ほど取り上げた『我身にたどる姫君』というのは、その最末期の物語作品ですね。物語が爛熟して最後の最後、熟成しきって腐ってしまう一歩手前、そういう時期の作品です。
けれども、そこで物語の歴史が終わってしまうかと言えば、そうじゃない。
古典の物語は今度は「御伽草子」と装いも新たに、少しファンタジックな作品が主流となっていきます。そして、こうした物語と、その製作過程は現代のライトノベルまで、続いていくのです。


というわけで、第三回目の講義はこれにて終了。
結局、第四回くらいまでやることになりそうですね……。
まぁ、好き放題書いているので、或る程度長くなっちゃうかな?という危惧はあったのですが……。

では、次の講義でお会いしましょう!

by s-kuzumi | 2008-04-19 20:42 | 日々之雑記
2008年 04月 15日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.2

道玄斎です、こんばんは。
今日も今日とて疲れました。色々と立て込んでいるとつまらない事で腹を立てたりして、厭ですねぇ。もう少しおおらかな不動心を手に入れたい所なのですが……。

さて、「ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論」もこれで二回目の講義となります。
「こんなの見にきてんじゃねぇんだよ」と仰る方もいらっしゃいましょうが、どうぞお付き合い下さいませ。
勿論、講義中はお酒は一切呑んでおりません!今日は大吟醸の酒だねのまんじゅうは食べていますが。コーヒーカップを持って教壇に上がる先生なんて昔はいましたし、まんじゅうくらい皆様も大目にみて下さるでしょう?


■前回のおさらい

前回は、あまりにもくだらない喩えを使って(例の東京タワーとエッフェル塔とか、純喫茶とメイド喫茶とか)「オタクとはなにか?」という問い掛けとその解答(の一つ)を示してみました。
要するに、複数のデータベースを頭の中に持っていて、それらを組み合わせる事でモノを考える事が出来る能力を持った人、それをオタクと呼びました。
単一のデータベースだけ持っている人は「マニア」とか「達人」とか呼ばれうるけれども、オタクじゃない、と。
まぁ、実際の所オタクの持つデータベースってのが凄い膨大な量なのか?っていうと、それは恐らく個々人による差があると思います。
例えば、三つくらいのジャンルに関する三つのデータベースを持っている人が、それぞれの道で「達人」と呼ばれうるような人に勝てるか?っていったらそれはまた別問題。
達人のデータベースの量や精度が10だとして、オタクのデータベースの量や精度は5くらいかもしれないし、或いは8とかそのくらいまでの人もいるかもしれない。はたまた3くらいの人もいてもいい。

大事なのは、「単一のモノに詳しいのではなく、複数の事柄にそれなりに詳しい」という事なのです。まぁ、この複数ってあいまいな言い方もアレなので、この際言ってしまえば「二つ以上」のデータベースを持っており、且つ、その二つ以上のデータベースを組み合わせる事で、一見すると関係なさそうな(あるいは関係がありそうな)もののミッシングリンクを見つけていく事が出来る人、これをオタクと呼びました。

大体、前回のおさらいはこの辺りでよいでしょうか?
では、第二回目の講義の、本題に入っていきましょう。


■古典文学ってオタク的?

さて、みなさんが中学、高校でさんざん厭な思いをしたであろう、古典についてお話をしていきましょう。
古典文学っていうとどういうイメージを皆様は持たれますか?
ゆくかわのながれはたへずしてしかももとのみずにあらず……

なんてフレーズが出てくる人もいれば、
春はあけぼのやうやうしろくなりゆくやまぎは……

なんてのを覚えている人がいるかもしれません。
少し古典が好きだった人なんかは、
いづれの御ときには女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに……

といった『源氏物語』の一節を覚えている人もいるでしょう。そういえば、百人一首なんかの歌をいまだに覚えている人は結構多そうですね。
ちなみに、私は中学校~高校二年くらいまで古典が大嫌いでしたので、百人一首なんて殆ど覚えていません。
中学の時に「百人一首大会」なるものがあって、全校生徒が強制参加させられたりしたのですが、私は札(和歌)を一切覚えず、相手の手の動きだけ見て、相手が取ろうとした札を先回りして取る、という技術だけで二位の銀賞を頂いてしまった事が……w

まぁ、そんな事は話の枕というヤツで、本題はここから。
私が思うに、古典文学ってとってもとってもオタク的なんじゃないでしょうか?というお話です。

古典って言えば、先に色々挙げてみた「古典文学」もそうですけれども、「古典芸能」なんてのが日本にはあって、古典芸能の家の人は妙に偉そうな顔をしていたりする。しかも若い女優に手をつけるのが得意なんて人もいたりしてw
まぁ、イメージとして何となく「古典」ってのが付くと「堅苦しい」とか「伝統が」とかそういう事を考えてしまいがちですが、私の考えではさにあらず。
寧ろ、古典って「アニメ」とか「マンガ」とかに物凄く似てると思うのですよ。勿論「ノベルゲーム」にもね。

っと、第二回目にしてやっとノベルゲームが俎上に上がりました。
兎に角、古典は「ライト」なものだっていう事を分かって頂きたい。
先ず、この際だから、話を簡略化しましょう。

「古典って言ってもよぉ、軍記とか紀行文とか色々あるじゃんかよ?」

と言われてしまっては困るのですw
取り敢えず、「マンガ」や「アニメ」或いは「ノベルゲーム」と同じ「創作ストーリー」の古典文学を「古典」と定義しておきましょうか。
どういうのがあるか挙げろって?まぁ、思いつくままにいくつか挙げてみましょう。細かい成立年代とかはあんまり考えないで、載せますよ。

『竹取物語』
(この竹取の前辺りに、今は無くなってしまった物語―これを散逸するといいます―の『はこやの刀自』なんて作品もあるみたいです。結構竹取に似てる所もあるって話だよ)

『宇津保物語』

『源氏物語』

『狭衣物語』

『とりかへばや』
(正確に言うならば『今とりかへばや』かな?元々あった『とりかへばや』は散逸しています。今現存しているのは、リメイク版なのです。そう、コミックメーカー製だった『TRUE REMENBRANCE』がリメイクされて吉里吉里/KAGになったくらいの違いがあるのです。ですから、今私たちの読むことの出来る『とりかへばや』を『今とりかへばや』と呼び、元々の『とりかへばや』と区別するわけですね)

『浜松中納言物語』

『松浦宮物語』


大体、こんな所でしょうか?
この中のいくつかの作品については、国語の時間に暗記させられたり、或いは教科書に載っていたなんて事もあるでしょう。
先ほど、『TRUE REMENBRANCE』という名作ノベルゲームを挙げましたが、基本的なジャンルはこれと同じ「創作ストーリー」です。まぁ、一口に創作っていっても色々あるけれどもね。基本として、という意味で捉えて下さい。

つらつらと挙げた古典作品ですが、どれもこれも「恋愛」小説だと思って下さい。
なんて言うと怒られちゃいそうだけどもw 事実恋愛を抜きにして成立し得ないのですよ、これらの作品は。言ってしまえば「恋愛モノ」です。
勿論、ここでレビューしたりしている作品で私が「恋愛モノ」と呼んでいる作品がいくつかあるわけですが、そうした作品が「恋愛だけ」で構成されているのではない、という事はご承知の通り。色んなストーリーの要素が絡み合って成立している。けれども、比重として恋愛が重い。
大体、今挙げた古典もそのくらいのイメージで捉えて下さると良いのではないでしょうか。

さて、如何でしょう?
「古典」とここで定義した作品の全てが、実は「恋愛モノ」だったのです。
大分、ライトな感じがしてきませんか?
まだ、足りない?

そうね、じゃあ、『源氏物語』をして「物語のいできはじめの祖」と呼ばしめた『竹取物語』を詳しく見ていきましょう。
これは例の「かぐや姫」のお話です。かぐや姫ってフォークソングのアレじゃないですよ?
意外と、『竹取物語』読んだことのある人が少なそうなので、簡単に概要を説明しましょう。

ある日、お爺さんが野山にまじりて竹をとりつつ、色んな事に使って生計を立てていたら、ある日根本が光ってる竹があって、切ってみたら、十センチくらいの可愛い女の子が出てきました。
その女の子を見つけてからというもの、お爺さんは竹の中に金が入っているのを発見したりして、非常に富み栄えたのでした。
女の子は、あっという間に成長して最高の美人になりました。彼女の美しさを聞きつけた五人の男が出現しました。彼らはアノ手コノ手で、女の子(以下、かぐや姫に統一しちゃいます)に求婚するのでした。


この求婚の顛末までが前半から後半頭くらいまでのストーリーの流れ。
だけれども、かぐや姫は誰からの求婚も受け入れないで、物憂げにため息ばっかりついている。で、求婚者をあしらう為に、かぐや姫は無理難題を出して男達を撃退しようとします。
この難題にまつわる話が、かなり面白いのですよ。言葉の由来譚になっていたりするわけですが、ツバメの子安貝を捕ってこい、と無理を言われた男は、結局ツバメの糞をゲットしてしまったり……。

どうでしょう?ちょっと面白いと思いませんか?ぶっちゃけ、良くある学園モノの男女入れ替えパターンみたいじゃありませんか?w
男はやったら恋愛に奥手(しかも致命的に鈍い)で、女の子(しかも複数!)からのアプローチに全然気がつかない。アノ手コノ手で男を振り向かせるべく行動する女の子、みたいなw
まだ、だめ?
それなら『源氏物語』で。

『源氏物語』の主人公的存在の光源氏と呼ばれている男は、10歳の女の子を誘拐します。

っと、皆さんの目が輝き出しましたね?w
勿論、皆さんの目が輝いているのは、これが「フィクション」だからですよね?現実に変な事をしちゃ駄目ですよ。分かってると思いますが。フィクションをフィクションの中で楽しむ、これも良いオタクの特技でしょうかね。
何か事件が起きると「アニメが」「マンガが」ってしたり顔でコメントする、馬鹿なコメンテーターがいるけれども、それなら殺人がつきものの「サスペンスドラマ」とかはどうなるんだよ?
それに「夢一杯、希望一杯」のドラマとかやってても、一向に若い者が「夢一杯、希望一杯」にならないじゃないか。つまり、テレビやマンガの影響なんてほぼゼロって言っていいと思います。

少し脱線してしまいました。
今ざっと見てきましたように、古典はとてもライトなものです。
「創作ストーリー」であり、「恋愛モノ」であり、且つ「サクセスストーリー」でもあったりします。尤も、中には恋愛に失敗した挙げ句、望んでもいないサクセスを手にしちゃうなんてお話もあるわけですが(『狭衣物語』とか)。

まぁ、物語だけを挙げてもアレなんで、『枕草子』とかにも触れておきましょうか。
『枕草子』結構読むの難しいですよね。私はニガテです。
けれども、アレ「ブログ」なんですよ、簡単に言えば。って、私が言ってるわけじゃないんですよ?古典文学の学者の専門雑誌に『枕草子』をブログとして捉えている、研究者が言ってたんですから!
けれども、とっても明快なとらえ方だと思いませんか?一応、従来的な『枕草子』のとらえ方って(枕草子自体、三種類に分かれるんだけども、それは無視します)「日記的章段」とか「随想的章段」とか、なんか、そういう面白みのない分け方をしていました。一つの作品の中で、ね。

だけれども、ブログとして捉えれば、このブログがそうであるように、日記的な記事があったり、或いはサウンドノベルのレビューがあったり、はたまた宣伝があったり、随想めいた事が書いてあったりと結構多様になっているハズ。
そりゃ、好きなことを自由に書けるブログだったら、日記っぽい事を書くこともあるし、随想になってしまう事もあるわけで。

そういう考え方をしていると思しい、写本があって、学習院大学が持っている「能因本」という種類の『枕草子』の写本です。
私は影印本を持っているので(影印とは、写本を筆跡もそのままにまるまるコピーしたものだと思って下されば。だから例のミミズののたうち回ったような字になってます)、今確認してみると、最初のページに「山」とか「峯」とか「はし」、「かたはらいたき物」とかブログの「タグ」に相当するものが、示されていて、その「タグ」から記事を選択する事が出来るんですよね。


大分、古典文学が、現代の小説とか、ブログ、はたまたラノベとかノベルゲームと近い感触が分かったのではないでしょうか?古典だからって全然恐いことはなくて、寧ろ「昔も今と同じような事やってんなぁ」と思って貰えれば。

そういえば、先ほど「良いオタク」と言いました。
では「悪いオタク」とはなんぞや?という事になるので、これを説明して、今回の講義を終えたいと思います。

先日、某シナリオライターの方とご一緒しました(プロがお手本にしたいプロという凄いお方です。勿論ノベルゲームのシナリオライターですよ?)。
氏が言うには、「良いオタクと悪いオタクがいる。一つの事だけにしか熱中出来ない(しない)のは悪いオタクで、恐らく視野狭窄に陥っている」と、まぁそんな事を話して下さいました。

氏の言いたかった事を、前回の講義と合わせて考えてみると、実は「データベースの数」の多寡(というか、1or複数)で「良いオタク」「悪いオタク」を分けているような気がしてきます。
或る一つの分野では、死ぬほどマニアックだけれども、他の事には全く興味関心がありません、ってのは、あんまり宜しくない。それなりに他の分野に目配りしていた方が、自分の突き詰めている分野にとっても有益である。と、まぁ私なりに解釈するとそんな感じになってしまうのですが。

けれども、講義の目的とは外れるけれども、「自分が好きならそれはそれで全然OK」なんですよね。好き/嫌いまで他人に口出しされたくないもんね。
とはいへ、一応「オタクとノベルゲーム、そして日本文化」を絡めて講義していく関係上、「良いオタク」を推奨しておきますw


さて、第二回目の講義はこのへんでおしまいです。
第三回目は最終回の予定ですが、場合によっては四回目が最終回になるかも。
取り敢えず、今回の講義で抑えておいて欲しい事は、「古典と言われる『日本の伝統文化』が実は、ライトでラノベやアニメ、はたまたノベルゲームと共通する要素がいくつもあるぞ」と、その程度で結構です。

次回は、古典文学の発生の場と、現代日本のライトな創作物(ノベルゲームを含む)の発生の場を絡めていきたいと思っています。
私見では、この発生の場や、発生方法こそが、現代のライトな創作物と日本文化を結ぶ、決定的なものではないかと思っています。

そろそろ、文字ばっかりでうんざりだぜ、って方もどうぞ、最終回までお付き合い下さいまし。

それでは、次回の講義でお会いしましょう。

by s-kuzumi | 2008-04-15 23:04 | 日々之雑記
2008年 04月 14日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.1

道玄斎です、こんばんは。

例によって例の如く、又しても突発的に変なことがやりたくなって(結構日常生活でストレス溜まってるのよ)、まぁ、二月くらいに宣言した通り、何か新しい活動をしてみよう、と。

「講義」だなんて、偉そうに名前を付けていますが、別に私が皆さんよりも上の立場からモノを言う、というのではなくて、普段からちょこちょこ書き散らしている事を纏めてみよう、或いはノベルゲーム/サウンドノベルを考えて貰う一つの切り口になったら、面白いかな、と思ったりしてのことです。

退屈極まりないかもしれませんが(そしてこういう試みは結構どこでもやられていそうな気がする)、暫しお付き合い下さいませ。

丁度、自分が大好きなサウンドノベルなお話と、日本の文化(と言っても多分、古典文学寄りになる……)をフェルミ推定よろしく(って全然違うか)、半ば強引に纏めてみようというそういう企画です。

タイトルに「vol.1」とあるように、最初っから一回で終わるとは思っていません。
通常の講義がそうであるように、導入から始まって、何かしらの結論(若しくは私が飽きるまで?w)が出るまで三回程度を予定しています。

というわけで、第一回講義を始めましょう。



■オタクってなにさ?~導入~

いきなり、あんまりなタイトルが付いていますが、当の本人は大まじめです。
ノベルゲームをプレイする人がオタクだとは言わないし、創る人もまた然り。だけれども、私をはじめとする熱狂的なノベルゲームプレイヤー(私がはじめ、っていうのが厭なら、末席にでも加えてやって下さい……)は、少なからず「オタク」的なのではないかと。

さて、注意点です。
今回、いや今回に限らずこの一連の講義ではここから「オタク」という語を、とても肯定的に使っていきます。世間一般(というか一部マスコミ)が必死に刷り込もうとしている「フィギュア大好きオタク族」みたいなものではない。
予め、結論めいた事を言えば、私が考えるにオタクとは、日本文化の由緒正しい継承者(別に北斗神拳に準えて「伝承者」でもいーけどさ)であり、現代日本の文化の最先端を行っている人たちである、というあたりでしょうか。
些か、オタクを擁護しすぎているような気がしないでもないのですが、「良いオタク」と「悪いオタク」という話も今後取り上げるつもりなので、またその機会にでも。

で、なんで急にこんな講義だなんて銘打って馬鹿みたいな事をやりだしたのかっていうと、案の定、ある本がきっかけになっています。
『オタク学入門』(岡田斗司夫著)なる本を読んだわけです。
別段なんてことない本なんですが、普段から私の考えている事、或いはちょこちょこと書き散らかしているものに、似ている部分、共有出来る部分が非常に多かったんですね。
一応、言っておきますけれど、この本は無く子も黙る東京大学のゼミで使われるテキストでもあるのです。

だから、本当は「オタクと日本文化」みたいな話にしてしまえば、一番纏まりがいいし、私が読んだ本もそのまま活かせる。
だけれども、それじゃただの丸写しだし、何より私が面白くない。というわけで、半ば強引にサウンドノベルとオタク、そして日本文化を絡めて話してみよう、と思い立ったのが今朝の四時半。
私、不眠症気味でしてねぇ、なかなか眠れないんですよ……。

さて、例の『オタク学入門』に良い事が書いてありました。
曰く、

「オタクとは高性能のレファレンス能力を持つ人間だ」
「ジャンルのクロスオーバーがオタクの本領」


と、まぁこういうわけです。
すぐに「アレは~のアレに似てるぞ……」と気付いてしまう、その眼力。それがオタクの武器なのです。うんとくだらないけれども、うんと分かりやすい例で言うと、東京タワーとエッフェル塔を見て、「どうやら東京タワーの元ネタはエッフェル塔だな……」と気付く、という。
実際問題として「アレは~に似てな」くても構わない。
けれども、その人の目から見ればそれは、きっと「アレは~に似て」るんでしょう。きっと個々人それぞれの観点から見て「共通項」を見いだしているに違いない。
当然、誤解なんかもあると思う。東京タワーの例で言えば「さてはエッフェル塔は東京タワーを真似たな……」とかね。

ここまで読めば、気付くと思いますが、これって結構学術的ですよね。
物事を分類して、類似と差異を見つけていく。へたをすれば作者なるもの(この作者の問題も後に扱う予定です)の意図すら喝破しようとする。

多分、オタクって言葉がまだまだ悪い意味で使われているんだけども、これもやっぱり、うんとモデル化して言うと、言うなればオタクとは「知恵袋の詰まったおばあちゃん」的なもんなんじゃないかな、と思うのです。
まぁ、知恵袋ってーと、「蚊に喰われたら朝顔の葉っぱを揉み込むとかゆみが収まる」とか、「障子の張り替えの時に大根の汁を付けると、良くくっついてしかも剥がしやすい」とかそんなイメージかもしれない。
けれども、そういうのじゃなくて、昔の事を良く覚えていて、現代でも昔体得したものを応用出来る、くらいの意味で知恵袋なる語を使っています。

先に挙げた『オタク学入門』からの引用二番目、ジャンルのクロスオーバー、という辺りを思い出してみて下さい。
多分、単一のものだけに詳しい人は「その道の達人」ではあるけれども「オタク」ではない。
「オタク」っていうのは、もうちょっと知識の幅が広い。「アレも知っててコレも知ってる。だからアレとコレが似てる事に気付く事が出来る」。これがオタクだと思われます。

要するにですな、テレビが盛んに煽っている「メイド喫茶大好き族」みたいなのは、オタクっていうよりも「メイド喫茶の達人」なのです。いや、勿論その中には喫茶店以外のジャンルの達人も居るわけで、当然ここで使う「オタク」な人も居ると推察されますよ。
所がこれに「純喫茶の達人」という属性が加わると「メイド喫茶と純喫茶をクロスして考えられるようになる」。これはもう「オタク」です。「喫茶店オタク」って言っても良いかも知れない。
私なんて、バレンタインの日にメイド喫茶に一人で入ってチョコレート系のメニューを頼めちゃうくらいの猛者になってますけれども、自分は恐らく「世間一般で言う所のオタク」ではないだろうし、ここで使うような良い意味での「オタク」としてもまだまだひよっこで末席にも加えて貰えないんじゃないでしょーか。
私が良い意味であれ、悪い意味であれオタクではない、という最高の証左は「コミケ参加が一回だけ」という実績にあります。
しかも、コミケに行ってみても、結局同人ゲーム、しかもサウンドノベル/ノベルゲームのコーナーをウロウロして、1000円札を出してみたり、或いは500円玉を出してみたり、はたまた「本当に10円でいいですか?」と聞いてみたり。

マンガなんて大好きだし、ライトなノベルもとても好き。
だけれども、最近はロシア文学も読むし、日本の古典文学だってちゃんと読んでます。で、私の場合「古典と現代日本のオタク文化」が似てるという事に気がついた、オタクとしての「初めての気づき」を体験したばかりです。こっからキングオブオタクになるのか、はたまたこのままどっちつかずのぬるま湯に浸かっているのか、はたまた「もっと高尚なものを読みたまへよ」とか説教する厭なヤツになるのかw それはまだまだ分からないけれども、少なくとも私は「古典文学」と「現代日本のオタクカルチャー」をクロスオーバーさせて捉えている、というわけです。

ここで、少し話しが戻ります。
オタクって言葉に悪いイメージがある、という辺りまで戻りましょう。
ここまで来れば、もう「アニメが好きな奴がオタク」とかそういう事は思いますまい。
寧ろ、「学者ってオタクなんじゃねーの?」と気付くのではないでしょうか。
先ほど、オタクの目は学術的だと言いましたが、まさにその通りで、結局学者って「オタク」なんだよね。慣習的に(というかメディアの刷り込み?)によって「アニメ」「マンガ」とかそういうのに詳しいヤツが「オタク」と呼ばれているけれども、「オタク」という概念自体が他分野へとクロスオーバー出来るものなのでした(なんかクロスオーバーって言葉を使いたいが為にちょっとオカシな言葉になってる??)。


さて、第一回目の講義はこのあたりで終了です。
取り敢えず、導入として「オタクとはなんぞや?」という問題を扱ってみました。
次回は、ノベルゲーム(別にサウンドノベルでもいいよね?)も議論の俎上に載せてあれこれと料理してみたいと思います。例の『ぼたんゆき』テイストとか、その辺りのお話になるんじゃないかな?勿論、次回から古典文学についてもあれこれ絡めながら話していけたら、と。

実は、講義ノートまで創ってるくらいなので(って本当につまらない所で労力を使うなぁ、自分……)、次回はどんな話になるのか、既に計画済みです。
取り敢えず、第二回目の講義は、今回のおさらいから入って、ノベルゲームの方に進みたいと思います。

それでは、皆様おやすみなさい。

by s-kuzumi | 2008-04-14 23:08 | 日々之雑記