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2008年 06月 14日

ノベルゲーム論 講義vol.1

道玄斎です、こんにちは。
昨夜は飲酒をせずにちゃんと眠ることが出来ました。微妙に不眠症気味の私は、時々お酒を呑むことで生活サイクルを正してやらないといけなかったりします。
二日前かな? その日にお酒を呑んで眠ったからこそ生活リズムが戻ってきました。

そういえば「明鏡止水」が切れてしまったので、たまには別のも呑んでみようと思い「酔鯨」なる日本酒を購入。「明鏡止水」を扱っているお店は一駅先なので、昨日は時間的にそこに行けなかったわけです。
味は、「明鏡止水」よりも辛口で手応えのある感じ。四国のお酒です。四国も随分と探せば良いお酒がありそうです。昨年末に四国に行った際に「桜うずまき」とかっていうお酒を呑んだのですが、これは中々好みの味でした。

で、焼酎も補完しておきました。これはいつも愛飲している「御幣」。名前に惹かれて飲み始めたのですが、結構グーです。すぐ横に置いてあった「鬼火」という焼酎に惹かれつつも、定番の一品にしてしまうという……。今度「鬼火」も試してみます。


さて、結構とびとびでやってきた「ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論」は、最後の方でグダグダになりつつも、意外と好評だったようです。私自身も試行錯誤しながら書いていたのですが、多くの方に見て頂けたようで、嬉しく思います。
で、「ノベルゲーム~」のラストでちょっと予告するともなしに予告しておいた「ノベルゲーム論」を一席ぶたせて貰おうかな、と。
大体、「これからは少しゆっくり作品と付き合っていきます」とか宣言しておきながら、ここ最近、またしても結構なペースで更新を繰り返しているので、自分自身で整理を付けたくなったというか、少しのんびりしたいぜ、という気持ちの表れというか。

それと、大体一年くらい前、このブログを始めた時に「一年後に~アクセスを目指して頑張ろう」という一応の目標めいたものがあったんです。
アクセス数自体は、そんなに気にしないけれども、漠然とやっていくよりも目に見える形で指標があった方が宜しい。というわけで一応の目標値を設定したのでした。
勿論、滅茶苦茶多いアクセス数を稼ぎ出す事に、全く私自身は意味を見いだしていません。これも何度か触れた事があるのですが、かなり以前に運営していたサイトはのべ数千万のアクセスがあったので、アクセス数が多くなると面倒ごとも多くなる、というのを実感しているわけです
。あっ、勿論、リンクを張って下さったり紹介して下さった皆様がいなければ、目標値に到達する事は当然無かったわけで、その点物凄く感謝しております。
ひとへにここまでやってこれたのは、様々な形でこのブログを支えてくれた皆様のおかげです。って書くと、何か最終回みたいだけどw

ま、それはさておき、最初に設定した目標値を今週で完全にクリアーしてしまったので、少し「今後どうすっかなぁ?」と、考えてしまいました。言うなれば、「目標が完遂されて脱力している」というか、燃え尽き症候群というかw

大体、私の行動パターンって、こんな感じで、目標が達成されると「飽きちゃう」んですよ。
だから都度、新しい目標を設定してやらないといけない。とはいへ、これも最初っから言っているように最終的な目標は「フリーのサウンドノベル/ノベルゲームのイベントを開く」って事にあるわけで、そういう最終目標に到達するまでに、まだまだやらんといかん事が沢山残っている。
で、何をやろうか? って考えた時に、前回好評だった講義っぽい何かをもうちょっとやってみよう、と思ったわけです。レビューを楽しみにしてくれている人には悪いのだけども、暫しお付き合い下さいませ。



■フリーとフリーじゃないノベルゲーム

私自身、フリーにこだわっている、というのは色々な理由があるのですが、その大きな理由の一つが前回の講義でも述べましたように「フリーこそが日本文化継承の最先端」という意見を持っているからです。

ところが、世の中にはフリーのゲームがある一方でフリーじゃないゲームも存在します。当たり前ですよね。
大きく分けて「シェア」と呼ばれるような「同人作品」。それと「商業」と呼ばれる、製作メーカーさんが製作し、電気店などで流通している「商業作品」があるわけです。
どちらかと言えば「シェア」の「同人作品」はフリーに近い。実際、シェアをリリースされているサークルさんがフリーの作品を製作したり、過去にシェアだったものをフリーにしてリリースする、なんて事も割と日常的に起きています。有名どころだと『I'm~』なんかがそのタイプですね。

半分、商業のような形でありつつも敢えて「同人」として作品を頒布しつづけているサークルさんとかもいたり、或いは同人から入って商業に鞍替えをしたサークルさんとかも居るので、厳密な区分けこそ出来ないものの、大まかに分けて、


○同人 → フリー or 同人シェア

○商業

と分けられるのではないかと。



■ノベルゲームの歴史

で、同人と商業のノベルゲームをこれから語っていくわけですが、「同人と商業を同列で語る事はナンセンス」という声が聞こえてきそうです。実際、私の心の中でもう一人の私が、今言ってましたw けれども、必ずしもナンセンスではない、とも思うのです。
敢えて言うなら、商業と同人は不即不離の関係にあるように思えるからです。

そもそもフリーの今普通に流通しているタイプのノベルゲームだって、「商業」から派生している事はまず間違いないでしょう。元祖的な作品は『弟切草』『かまいたちの夜』ですよね。
やったらめったら当時、ゲーム雑誌が褒めていたのを覚えています。ともかくアクション、RPG、シューティングなんかが全盛期だったゲーム業界に「読む」為の手法を導入した、というインパクトがあったようです。

初期のフリーサウンドノベルにホラーやミステリーといったジャンルが多いのは、恐らくこの『弟切草』『かまいたちの夜』の系譜を引いているからでしょう。

こうして、商業ベースで「読む為」の作品が導入された事をきっかけに、「恋愛アドベンチャー」なるジャンルが登場してきます。『同級生』とか『ときメモ』とかです。
『同級生』のリリースは『弟切草』とほぼ同時なので、丁度その時期に「読ませる作品」の一斉の萌芽があったと見た方がいいのかしら? ともあれ、「恋愛を読ませる」という画期的な手法で(それ以前は、ゲームに勝ったら女の子が服を脱ぐとか、ちょっとアレなものが多かったらしい)、現代の商業ゲームの流れが出来てきました。

で、『To Heart』の登場により、ストーリーを重視する流れが主流となり、『Kanon』だとか一世を風靡するような作品が世に出る事に。まだ20世紀の話ですよ?w
勿論、現在と同じようにこれらのゲームは「パーソナルコンピュータ」で遊ぶものでした。が、2000年あたりから加速度的に一般家庭にパソコンが普及してきます。もう一家に一台くらいはパソコン、ありますよね? 私の部屋にだってノートパソコンを入れて四台もあるんですから……w 

これは余談ですが、当時WindowsMEというマジでどうしようもねぇOSに騙された人も多かったハズ。私は昔っからNTユーザーなので、NT4.0からWin2Kと由緒正しいアップグレードをしていました。実際、昨年までWin2Kは私の主力マシンでした。大体Win2Kに変更した辺りから私のUnix熱も高まってきました。Linuxなので厳密に言えばUnixとは違うのかもしれませんが、「もうWindowsの亀みたいな動作におさらば」とか「少ないメモリで快適に動く」なんてアオリ文句が私の心に響いたのは確かです。

当時、Linuxを含めたUnixは微妙に苦戦を強いられていました。Macユーザーからは「だせぇOSだぜ!」と言われたりWindowsユーザーからは「使いにくいゴミのようなOS」と酷い扱いでしたが、いつの間にかMacOSはBSDというUnixの亜種になってしまっていますw
これは、例のジョブスさんが一度アップルを離れた際に、NextStepというUnixのOSを手がけていたからなんですが、当時あのNextのインターフェイスは抜群にカッコ良かったんですよね。ですので、私も長いこと、Nextのインターフェイスを模したAfterStepなるインターフェイスを使っていました。

ちなみに現在では、Linuxは檄重で、同一のマシンにWindowsXPとLinuxを入れたら、普通にLinuxの方が重たく感じるハズです。尤もそれはGUIを入れた場合なんですが。
時代が時代ですから、私もAfterStepは早々に卒業して、今はKDEを使っています。これ、小綺麗だけど重たいよ?w 全てをターミナルで動かすようなヘビーユーザーではないので、こういう不利益を被っているわけですがw 結局Linuxを快適にぶんまわそうと思ったらメモリを沢山入れた方がいいみたい。


滅茶苦茶蛇足で、脱線しまくりですね……。
話を戻しましょう。ともれ、こうしてパソコンが普及し、パソコンの性能も向上、便利なソフトも次々出てきました。「自分でもノベルゲームが作れる」時代の到来です。
当然、お手本にすべきは、『弟切草』だったり『かまいたちの夜』だったり、はたまた『To Heart』だったり『Kanon』だったりするわけですよね。
つまり、商業を参考にしつつ、オリジナルの同人作品が登場するようになった、という事です。

影響力の強いものを引用して、オリジナルを作る。これは先の講義でやった事のおさらいになりますね。結局、そういう事みたいですよ。故に、ノベルゲームの場合、商業と同人は不即不離と言ったわけです。
こうして、世に「ノベルゲーム」が広がっていく土壌が出来ました。という辺りで今回はおしまい。

またしても行き当たりばったり的に始めているから、今後どうなるか分からないのだけども、次回は商業作品と同人作品の長所・短所を語ってみようかな、と。


一応、講義の方向性を示しておくと、私はフリーが好きですから「フリーに肩入れした立場」で発言していきますよ?w

それでは、また。

by s-kuzumi | 2008-06-14 15:43 | 日々之雑記
2008年 06月 06日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.5

道玄斎です、こんばんは。
前回の講義からかなり時間が空いてしまいましたね。意外と読んでくれている人がいるみたいで、こういう怪しげな活動も少しは役にたってる部分もあるのかな、と思っております。

んじゃ、予告通り最終回、いってみよっか。


■おさらい

今回を含め、全五回の講義になってしまったわけで、いちいちおさらいをするのは面倒なのでリンクを張ってお茶を濁します。

第一回目
第二回目
第三回目
第四回目



■批評との関わりから

前回、テクスト論なんて小難しい話を持ち出してみたわけですが、結局「正しい批評なんて存在しない」という極々ありきたりの結論に達したのでありました。
フォローを少しだけしておくと、テクスト論は「好き勝手読んじゃえ」っていうのではなくて「こう読まざるを得ない」とか「こう考える事で他の~の解釈も変わってくる」とか、それなりの基準があって、使用される文学理論のようです。「俺はこう読む」っていうのがあってもいいけれども、完全にそれだとテクスト論としては成立しないんじゃないかと。
うんと簡単に言っちゃえば、「ただの感想」とはちょい違う、くらいに思って貰えればいいのかな。

さて、オタクな文化の方に話しを戻していきましょう。
某漫画(アニメ)で「オタクは自分の推論を自信100%で語る」というようなネタがありました。勿論、ここで言う推論とは「あのアニメの~の部分は~に影響を受けていて……」といったそういう類のものです。
オタクも究めてくると、単純に声優さんを調べたりって所に留まるのではなくて、監督やら作画やらそういう人たちを含めたキャスティングに注目していきます。最も分かりやすい所で言えば、「あのアニメは~が作っている」みたいに、製作会社に注目したりとかですよね。

だから、実はオタクの推論って意外と「自分勝手の適当な発言」ではなくて、割と根拠のある、言ってしまえばテクスト論的な発言が多いんじゃないかと。
そう、テクスト論は、作品を個別にぽんっと存在しているものではなくて、先にリリースされた作品からの「引用の織物」と見なすのでした。「必ず元ネタがあるハズだ」と考えて、それを推理する行為は非常にテクスト論的に思えます。

中には、「敢えて引用をバラす」ような作品があるのもまた事実。
普通、分かりにくいものの中から「これは~の引用かな?」と半分手探りで探していくわけですが、作品自らが「これは、~からとってますぜ」とバラしてくれる事もあります。
そういうのは、一読(一見?)すれば分かってしまうのですが、やっぱり或る程度は「これはアレから取ってるな」という推理の手順があると、ちょっと嬉しいですよね。それがほんのひとさじの知識で分かるものだったとしても。



■京都アニメーションと引用の問題

んで、前章の内容を踏まえて、京都アニメーションについて。
京都アニメーション、通称京アニ。 アニメに詳しい人にはお馴染みの製作会社です。圧倒的なクオリティと遊び心のある演出で近年、一気に知名度を高めた会社ですね。
今、ちょろっと調べてみたのですが、非上場ですし、資本金も一千万円と、割と小さな会社である事が分かります。それにも関わらず、ここまで知名度が高いのは、その丁寧でクオリティの高い仕事と、その「遊び心=センス」に依拠する所が大きいのではないかと。

問題としたいのはその「センス」の部分です。
私自身そこまでアニメに詳しいわけじゃないんだけど(じゃあ、アニメの事なんて書くなよ、と言わないで……)、ざっと京アニの作品を見てみて、気付いたのは「引用」が上手い、という事。

それは、アニメなんて全く観ません観るのはニュースだけですアニメなんて子供の観るモノですいいかげん大人になったらどうですか? 的な人が、観ても気づかないようなレベルの引用です。だけれども、しかし、「ちょっと流行もののアニメくらいはチェックしてます。いい歳ですけれども、すみません」みたいな人にはすぐに「ピン」とくるような、そういう引用の仕方をしているんですよね。
これって、物凄い重要な意味があるんじゃないかなぁ。

前章で、分かりやすいものでも「自分で推理」して出てきた解答は気持ちいいと書きましたが、まさにそのタイプです。しかも、ちょっとした知識があれば分かるレベルでの引用なんです。
いっちゃん分かりやすい例を挙げてみましょうか。

例によって『涼宮ハルヒ』でいきます。この例に対する批判は受け付けませんw
んで、アニメで「ミステリックサイン」というお話があったわけですが、その際、必殺技(?)を繰り出す小泉君が「ふもっふ!」と叫んでいます。
この「ふもっふ」なんですが、同じく京アニが制作した『フルメタルパニック ふもっふ』から取っていると思しいんですよ。というかほぼ100%そうでしょう。これは京アニが好きな人はすぐに「ピン」と来るはずですし、京アニが制作したかどうかなんて知識がなくても『フルメタルパニック』というアニメを知っていれば「ピン」とくるネタなんですよね。
なんだけども、一般人には、何のことだか分からない。

ちょっとぬるめのオタクくらいでも読み解ける「引用」という名の暗号が入っているわけです。
これは盛り上がらないわけがない。或る意味で読み解ける人を限定しながらも、その値が低く設定されている。更に、そうした「暗号解読」というプロセスに於いてオタク同士の絆(w)も強化してくれるというわけで、大したもんだと思いました。
これが、本当に上級者オタクにしか分からないようなネタだけになっちゃうと(そういうネタもこっそり混ぜてあるのが凄い!)、内輪だけの盛り上がりになってしまいます。盛り上がりのすそ野を広げて「初心者から上級者まで読み解ける暗号」と「上級者のみが分かる暗号」を並立させる事によって、「このアニメ会社分かってるなぁ」と思わせる効果があるんじゃないかな。



■コミックマーケットと古典文学

さて、引用にまつわる諸問題は、このくらいにしておきましょう。
んで、次にお話するのは、コミックマーケットと古典文学というお話。別にコミケじゃなくてもいいんだけども、一番有名だからね。

いきなりで恐縮ですが、今から950年くらい前にもコミケがあった、という衝撃的な事実を先ず語ろうと思います。

コミケの要件って、「一次、二次を問わず創作物」を「その為に用意された会場」で「同好の士同士」で「お披露目したり」「頒布する」ってところでOKでしょうか? 私の誤認があるかもしれないけれども、大体こんな所でしょう。

大体、今は二次創作がコミケ(を含む同人誌即売会)の花形なわけですが、こうした同人誌即売会は950年くらい前に存在していました。それは「物語合」(ものがたりあわせ)なるイベントです。もうちょっと正式に言うと「六条斎院物語合」といいます。

要は、各人が新作の物語を持ち寄って、お披露目会を開いたって事なんですが、これはもう同人誌即売会の元祖でしょう。このイベントでは、皆さんもご存じの『堤中納言物語』の中の一篇「逢坂越へぬ権中納言」という新作物語がお披露目された事まで分かっていますし、その作者が小式部なる人間である事まで判明しています。
コミケなどとの唯一の違いは、金銭の授受で物語が売り買いされなかった、という点です。けれども、当時の時代にあって、そのくらいの差異は大した事じゃなくて、良い作品は「お金を払って買う」ものではなくて、「自力で書き写す」ものなのです。
だから、ちゃんとこのイベントでお披露目された作品は書き手-受けての間で「流通」しているんですよね。

更に違いを言えば(さっき唯一の違いとかって言っちゃったけど、勘弁してね)、全員がクリエーターであり、全員が読者である、という辺りでしょうか。主催者とかは違うけれども、「各人」が新作を持ち寄ってわいわいやるイベントなのですから、全員が物語作者であり、その享受者でもあるのでした。
これは共通点なんだけども、全部一見「新作」に見えるけれども、前時代の物語の影響を受けたものが多数あった事想像に難くありません。ですから、厳密に言えば一次創作かもしれないけれども、その内部には多分に二次創作的なニュアンスも含んでいるんですよね。

こういう事が可能なのも、著作権という概念が希薄(というか無い)からなんでしょう。
著作権を守ろう、ってのは別に悪い事じゃないけれども、それがいきすぎてしまうと、名作なんて出てこなくなってしまう。ま、これは余談ですね。

まぁ、兎に角この講義全体で言いたい事ってのは、オタクな文化と古典の時代から近代まで続く「創作」の文化っていうのは、非常に近しいものがあって、「実はオタクが伝統の体現者」だというある種の援護射撃をしたい、というわけですw



■そしてノベルゲーム/サウンドノベルへ

つらつらとあれこれ述べてきましたが、「創作物」とかをそのまま「ノベルゲーム/サウンドノベル」に置き換えても、結構すんなり当てはまるんじゃないかと思います。
こうしたゲームの主体は、結局の所「文章」(狭義のシナリオって言っていいのかな?)がなわけで「物語製作」という意味に於いては同じだからです。 実際、シナリオライターよりも絵を描いている人の方がお金が多く貰えるなんて事があるわけですがw

結局、物語の歴史と同じように、サウンドノベル/ノベルゲームに関しても、名作が出てくると、それを引用するような作品群が形成される。そしてまた突出した作品が出て、それらが引用されて……という状況があると思われます。これは別に商業/同人を問わず言える事ですよね。

ただ、商業だと結局「お金の流通」になってしまいますし、「お金になる」企画じゃないと通らないわけで、結構シビアなモノになっていると予想されます。どういう事かと言うと、同人とかフリーでリリースしている分には、「或る程度の自由さ」がそこに加味出来るんですよね。
これは同人の良さの一つでもあるのですが「好きなものが好きなように作れる」という問題と不可分です。ところが商業だと「売れる為」には自分の好みを捨てないといけないような局面もあるんでしょう。たまに商業作品をプレイして、イライラした事ありませんか? 「また、このヒロイン属性かよ」と。私は結構あるんですよね。

ツンデレが流行れば、猫も杓子も「ツンデレヒロイン」をヒロインの中に入れてくる。
ツンデレな要素を盛り込みつつ、マイルドに仕立てるというよりは、徹底して「ツンデレ」なんですよね。結局、それはユーザーの求めるものであり「お金になる」という意味ではいいのかもしれないけれども、物語って或る要素を「引用」して利用する分にはいいんだけども、その要素に振り回されてしまうと、どうしようもなくなってしまう面もあるように思えます。
要素をコントロール出来るか、要素に振り回されてしまうか、っていう問題ですが、しっかりと手綱を握った上で最大限の作品を作るクリエーターの方には本当に頭が下がります。

こういう、事情があって、もう少しプリミティブな物語発声/物語製作/物語流通のあり方を魅せてくれるような、フリーのノベルゲーム/サウンドノベルが私にとっては溜まらなく魅力的に思えるのでした。

今の商業美少女ゲームのフェーズを、文学史に当てはめて見ると鎌倉~南北朝くらいの「鎌倉時代物語」のフェーズに入っているな、と感じます。
これは結構危機的な状況で、所謂一つの「衰退期」なんです。勿論、素晴らしい作品がちょこちょこと出てきてはいるのですが、シーン全体で考えてみるとどうにも衰退しているような気がしてならない……。
んで、文学史の通りに事が進むのならば、全体としての規模が縮小して、今の商業ゲームとはまた違った形に変化した上で(文学史で言えば、物語が衰退して、御伽草子というフェーズに入る)、細々と続いていくというわけですが、私の予想では、新しいフェーズがいつやってくるかは分からないものの、そうした新しい動きは「同人」だったり、いつも取り上げている「フリーのノベルゲーム/サウンドノベル」から興るのではないかと、そう思うのです。

フリーのゲームをひたすら探して、ひたすらプレイして、「これは……」と思えるような作品を取り上げていく、というのは、実は変化してく「ノベルゲーム文学」の最先端を追っている、という行為だと思っています。

連綿と続いてきた日本の文化をなぞるようにして、ノベルゲームは進化していきます。
もしかすると、「次」を予感させるようなゲームが出てきているのかもしれない。
兎にも角にも、私はこうやって、或る意味でくだらない事に一生懸命になって、日本文化(もっと正確に言えば、日本文学?)とノベルゲーム文化(ノベルゲーム文学)の両輪を見つめて、これからもやっていこうかな、なんて思っているのでした。


とまれかうまれとくやりてむ。


P.S1
気が向いたら、もっとノベルゲームに特化した「ノベルゲーム論」なんてのもやろうかと思っています。気が向いたら、ですけども。


P.S2
これまでの講義は、話半分、という事でw 専門家(いるのか?)から見たら至らない点が一杯あるかと思いますが、話を単純化していたりしますので、細かい間違いなどはご容赦願います。


ではでは。

by s-kuzumi | 2008-06-06 18:37 | サウンドノベル
2008年 04月 27日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.4

道玄斎です、こんにちは。

延び延びになってしまった「ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論」の続きをお届け致します。
今日は少し前回三回分までよりも、ちょっぴり真面目な体裁を採る予定ですよ。


■おさらい

うんと簡単に纏めてしまうと、古典文学の発生の過程とサウンドノベル/ノベルゲームの発生の過程に似たものがある、とまぁそんな事を回り道をしぃしぃお勉強してきました。
もう少し補足しておくと、今「正統派」の芸術として認知されているようなものではなく(んー、例えば芥川賞受賞作とかね。私からすればそれもライトなものになってる気はするんだけども)、ライトノベルとかそういうものも、私からすれば非常に古典文学的です。
今年が源氏物語が記録上に出てきてから丁度1000年経つわけですが、こういう物語文学作品の伝統は今なお、形を変えつつも存続している、というわけです。



■ライトな文化と「引用」

前回かな?確か『はこやの刀自』なる作品が、中国由来の物語を利用して日本独自の物語を更にそこにミックスして出来た、というようなお話をしました。
何もない所からは何も発生しない、というわけで、必ず何か作品が出来る際には「元ネタ」(っていうと言い過ぎな気もするけれども)が存在しています。
それは、その作品を製作なさっている方が意識している場合もありますし、逆に意識せずに使ってしまう、なんて場合も勿論想定出来ます。

こういう影響力をここでは「引用」と言い換える事にしましょうか。
引用っていうと、「二字下げ、出典・発表年明記」なんて事を考えてしまう方もいらっしゃるかと思いますが、そこまで厳密な定義じゃなくて「Aという作品に有形無形の影響を受けたBという作品が存在する場合、BはAを引用した」と、まぁこのくらいのゆるーい定義でお願いします。

更に引用といっても、敢えて引用する「確信犯的な引用」(パロディである事が多い)だったり、気付く人だけ気付くような、「一部の人へのメッセージを込めた引用」だったり、はたまた「作者自体が自分が引用しているという事に気がついていない、無意識の引用」など、様々な形があるかと思います。そこらへんの区分けがちょっとめんどくさい所ですが、引用と一口に言っても色んなタイプがありそうだ、くらいに思っていただければ。

で、なんでここで引用を問題にするかというと、今のライトな文化が常に引用という問題と不可分だからなのです。
滅茶苦茶分かりやすい例を挙げましょう。
コミックマーケット、通称コミケ。この年に二回のお祭りは、企業ブースやらオリジナル作品の発表の場になったりしているわけですが、なんと言っても「二次創作」が花形でしょう。
二次創作の同人誌だったり、二次創作のゲームだったり、或いは二次創作の小説だったりと、二次創作が主役(的)になっているのです。
そういえば、昨日「あやかしよりまし」の二次創作のゲームについてお知らせをしましたね。
ま、それはさておき、二次創作というのは、「元ネタの引用」である、というのは今までのお話から分かっていただけるのではないかと思うわけです。
元となる作品があり、そのキャラや設定などを使い、自分好みの物語を作っていく。或いはそうした引用の中で確立していくキャラの属性なんかがあったり。
最終的に、そこから「オリジナル」の作品が生まれたとしても、やはりそれは元の作品への引用という属性を保持しているのではないかと、私は思うのでした。

ここで一点注意を。
別に、引用から生まれた「オリジナル」は価値が低いとか、そういう事を言いたいんじゃないですよね?寧ろ、そういう「オリジナル」作品が生まれてくる状況とかそういうものに焦点があるので、その点誤解なきよう。
寧ろ、私自身は「引用の織物」的な作品が大好きです。
そういえば、最近は「ある作品の音楽だけだったり、或いは印象的なフレーズを『引用』し、全く別の作品の引用物に組み合わせて、オリジナリティのあるものを作る」なんて事も行われていますよね。ニコニコ動画とかさ。
先にも述べましたが、「引用」にもレベルがあって、印象的なフレーズだけ引用するものから、かなりの部分を元ネタに依拠するものまで様々です。

こういう引用は、何も作品の中だけで行われ、消費されていくものではありません。
例えば機動戦士ガンダム。「親父にもぶたれたことないのに!」というアムロのセリフがありますよね(親父にも殴られた~とどっちが正しいんだろう?)。
結構、このセリフ日常で使う人、居ませんか?w お互い共通認識がある場合、そういった符丁的に「引用」を使う事も可能なのです。
このような引用のあり方は、端から見てると「あぁ、オタクっぽいなぁ」なんて思いますが、とても伝統的なものだったりします。
そう、和歌です。

古典文学は散文であっても、おびただしい和歌が使用され、その和歌も前時代或いは当代的なものからの引用で構成されていたりします。
良くあるのが、男性貴族が女性に言い寄った際、女性は男を袖にする和歌のワンフレーズだけをぼそっとつぶやいて男に自分の意を知らせる。
そんなシーンは結構しょっちゅうお目に掛かります。或いは地の文でも、状況を説明する為に著名な和歌のワンフレーズを持ち込んで、瞬間的に状況を読者に説明する、なんて事は始終行われています。
そうね、即席で古典っぽいものを書いてみましょうか?

をとこ、われてもすゑにとぞ思へば、かへりみがちなれどつひに出でぬ

いや、本当適当に書いた文章だからアレなんだけども、本を読んでいて章が変わって、いきなりこういう文章が出てきたとします。
そうすると、「われてもすゑに」という文言から古典文学の読者は崇徳院の歌「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」を即座に想定するハズです。
ということは、「男と女が離ればなれになってしまったんだな」と状況が一瞬で理解出来る。引用が情報伝達のツールになっている、という感じでしょうか。
そもそも和歌っていうのは「本歌取り」という「引用」の技法があるくらいなので、とても引用というものと相性が良い。
尤も、現代では和歌なんて詠んでいる人は少ないですから、その代わりに印象的な台詞や文言、フレーズがこうした引用の対象になっているわけです。

例えば、これを読んでいる人が高校生か何かで、古典の宿題を珍しくちゃんとやってきたら先生に「お前、~の宿題を写しただろう!」なんて嫌疑を掛けられたとしますw
そういうい時にぼそっと「まだふみもみず」とつぶやけば、きっと先生は納得してくれますよw



■引用の限界点と想像力

さて、ここまで引用という問題を扱ってきました。
ここで、引用という問題をもう少し突っ込んで考えてみましょう。
実は、古典文学に限らず1980年代くらいから文学研究に「テクスト論」という考え方が持ち込まれ、主流となります。
リンクは、とても分かりやすい形でテクスト論を纏めているページを張ってあります。著名な古典文学の研究者が語っておりますよ。
うんと乱暴に纏めてしまうと、「作品はテクストと呼ぶ。テクストとは織物であって、全てのテクストは作者の意図を排除して、引用の織物として考えるべきだ」というような理論(思想)です。有名な「作者の死」ですね。
私自身は、そこまで「テクスト論」について詳しいわけではないので、まぁ、この章は話半分に。。
で、どうしても私はこのテクスト論なるものにある種の違和感を持っているのです。

確かに、「引用」の織物として作品を捉えるという視点は良いと思いますし、引用という問題に深く切り込んでいけるようになった、という意味ではとても成果は大きい。
けれども、作者という概念を想定しない(但し、実際に執筆した作家という概念を保持する一派もいる)というのは、何となく違和感を覚えませんか?
そりゃ、古典みたいに作者が実は誰だったのか分からないような場合には(そういえば、『源氏物語』だって紫式部なる人物が執筆したというコンセンサスはとれているものの、果たして54帖全部彼女が書いたのかといえば、それは実は誰にも分からないのです。もしかしたら同人サークル『源氏物語製作委員会』のメインライターが紫式部だったという可能性すらあるんじゃないかと、私は思っていたりするのですがそれは蛇足ですね)、それはそれでいいのかもしれないけれども、現代のライトな文化でそれをやっちゃうと、ある批評雑誌の記事を読んだけれども、「こないだあの作者さんと酒を飲んだけれども、そんな事はいってなかったぞ」なんて事が起きたりする。

実際、そういう事はままあって、私の知り合いから聞いた話しなのですが、その知り合いの知り合い(ややこしいね)がプロの作家さんだそうで、教科書だかに文章が載ったりするお人なんだそうです。
で、業者テストか何かで、その人の作品が取り上げられて「この時の~の気持ちはどういうものでしょう?」的な例の問題が出て、正答例を見た作者はびっくり。
「俺の示したかった意図とはまるで逆なものが正解になってる!!」
と。

そう考えると、作者の意図を単純に排除してしまう、という事で整合性のとれなくなる場合が、こと現代にはあるように思えますが、如何でしょうか?
しかし、テクスト論者は「それは作家としての彼の意見であって、テクスト論的な見地からみれば、周囲の引用によってこの部分の意味は~のように固定されて読めるのである」となってしまう。
勉強不足でアレなんですが、何となくそういうあたりに私は違和感を覚えます。多分、鑑賞する側と製作する側には絶対的な違いがあるのではないかと。
まぁ、兎も角「引用という視点だけ」で作品を読んでいく事は実際の所、実情に合わないんじゃないかと思うのです。

先に挙げた「われてもすゑに」とか「まだふみもみず」とかは非常に特徴的ですし、元ネタが一発で分かってしまう。
けれども、それが引用なのかどうか認定しづらいケースってのもありますよね。
しかし、割とテクスト論者ってのは、或る意味で確かめようもない推測に基づいて批評を行ったりするような気がします。彼らが言うには「そういう『読みの可能性』を探る事でテクストが豊かなものになる」っていうわけで、あれこれ考えて、自分の読み方を考えていくという事自体は私も好きです。

私は個人的にテクスト論には相容れない部分があるわけですが、作品を自分なりに解釈していく、というその立場は楽しいですし、良いと思うんですよ。学術的にそれが正しいかどうかという問題は別として。
こういう批評の態度って、そうはいっても私なんかも日常的にやってますよね。「~の場面は実は~とパラレルにあるような気がする……」なんて私も書いてますw

批評っていうのは、或る意味でそういう個人的な感想と切り離せない部分もあって、恐らく確実に言える事は「正しい批評」というものは、恐らく存在しない。みんな各々自分にとっての「正しい批評」をやってるわけで、絶対的な「正しい批評」の指針はどこにもない。
あっ、勿論、作品を貶すためだけに批評をする、っていうのは論外だからね。

特にフリーのサウンドノベル/ノベルゲームなんかの場合だと、プレイヤーと作者の位置が近いわけで、作者様に対して良いフィードバックが出来たらなぁ、とは考えますが、批評なんて言葉を大上段に振りかぶるとちょっと意味合いが違ってくる所もあるのかも。
だから、私はレビューという言葉にしてお茶を濁しておこうかな、なんてw 以前英英辞典でレビューの項目をチェックしたんだけども、レビューの方が「感想」的な意味合いが強かったハズなので、私はレビューという語を使い続ける予定です。



■次回の講義に向けて

全体的に引用について、今回はお話しました。
特に後半からはテクスト論という文学理論を考えてみたりもしましたね。

このテクスト論の負の面ばかりを強調してしまったような気がしないでもないのですが、私はノベルゲーム或いはライトノベル、はたまた漫画の文脈でユーザーが自由に論議するという意味で、とても楽しい理論だとも思っています。いくつかの問題点をそこに認めるにしても、ね。

次回は、もう少しテクスト論のお話に付き合っていただきながら、今までの講義の纏めに入ろうかと思っています。
当初三回の予定が、見事に全五回の講義になってしまいましたね……。
次は最後ですから、またノベルゲームのお話なんかも沢山出来たらいいな、と思いつつ筆を擱こうと思います。

それでは、また。

by s-kuzumi | 2008-04-27 17:47 | サウンドノベル
2008年 04月 19日

ノベルゲーム/サウンドノベルと日本文化論 講義vol.3

道玄斎です、こんばんは。

そろそろ転職を考えようかと思います……。残業自体は構わないのですが(というか勤務時間外でないと処理出来ないものもありますからね。時間的な問題で)、残業代が支給されないとか、ちょっとアレな感じなのでw
あまりに気になったものですから、某公的な機関に問い合わせをしてみました。
雇用契約書などの記載事項を見て貰ったり、あれこれとやってみた所、やはり法的に問題があるようです。

まぁ、実際の所何でもかんでも杓子定規に法律に合わせていたら、世の中回っていかないのですが、頑張った分のリターンが、時間であれ金銭的なものであれ、少しでもあったら、と思います……。
まぁ、実際問題、毎月お給料は振り込まれているので、まだ恵まれている方なのかもしれません。ただ、帰宅時間が午前一時過ぎとかになると、流石にちょっと……。


と、ここまでが話の枕です。
愚痴っぽくなって、すみません。
というわけで、のびのびになっていた講義三回目スタートです。


■おさらい

・オタクと呼ばれる人は(割とライトな文化の)複数のデータベースを持ち、それらのデータをクロスして物事を見ることが出来る。

・日本の古典文学(=日本文化)は、実はとてもライトなもので、現在のアニメやマンガ、そしてノベルゲーム/サウンドノベルなどと共通するものが多い。


という事でした。ざっと振り返ってみましたよ。
少し補足しておくと、例えばイカニモな伝統芸能の技術保持者と同じく、いや、それ以上に「今」現在の文化的な状況を「伝統的な視点」で捉える事が出来るのが、オタクなのです。
では、早速本論に入りましょう。



■オタクの日本文化継承性

先ほど、伝統芸能の伝承者についても触れました。
彼らは、1000年くらい前(或いは800年とか、はたまた400年とか)の伝統を、保持して「保存」しています。
勿論、中には「保存するだけではなくて、新しいものを生み出さないと死んだモノになる」と果敢に新たなステージにチャレンジする方もおり、そうした方は本当に尊敬出来ます。

ここで、伝統芸能の発祥という問題について考えてみましょう。

何もない所からは、何も生まれない、というのは当然のことで、何かが新しく生まれる際には、必ずそれの元となった考え方なり芸術なりがあるものです。
このブログだって、作者様の素晴らしい作品がなければレビューは出来ませんし、先達の偉大なレビュワーの方の影響も物凄く強い。
そうした先達のお力を有形無形でお借りしつつ、このブログは運営されていたりします。

当然、伝統芸能もある日降って湧いたのではなくて、何かしらその基礎となるようなものがあるのです。
前回の講義でお話しました『竹取物語』。これが出来る前段階として『はこやの刀自』(本当はこの「はこや」の部分も漢字なんですが、ちょっとすぐに出てこないのでひらがなで勘弁してやって下さい)という作品があった、というのもちらっとお話しましたね。
この『はこやの刀自』自体も、仙人というか仙郷というかそういう中国風のストーリーが背景にあるのです。
だから、うんと分かりやすく説明すると、

中国の物語→『はこやの刀自』→『竹取物語』

となるわけです。
勿論、中国の物語に日本のその他の物語をプラスして『はこやの刀自』が出来て、更にそれに他の物語がミックスされて『竹取物語』となっています。

で、この『竹取物語』は、その後の日本の物語文学の大きなマイルストーンになりました。

そこから、さらに紆余曲折を経て、和歌なんて文化も吸収し、物語文学は『源氏物語』という或る意味で最高到達点に達するわけです。
で、問題はその後、『源氏物語』は出来映えが大変宜しい作品でありまして、「源氏みざる歌詠みは遺恨のことなり」と藤原俊成をして言わしめる事となります。
俊成は、藤原定家のお父さんですね。定家はご存じでしょうか?いまだに存続している「冷泉家」のご先祖様です。過去からの日本の文化人トップ3を挙げるなら、必ず入ってくるような人物ですかね。

一旦『源氏物語』という作品が、その地位を確立してしまうと、フォロワーというか、そうした作品も多く登場する事になります。
勿論、そうした中で、『源氏物語』の影響を受けつつも、新たな物語を作ろうとするような動きもあるのですが、それも或る意味「安易な源氏のパクリは創らん!」と源氏を意識している部分で、やっぱり既に『源氏物語』の影響下にあると考える事も出来ます。
『源氏物語』以降で、前回挙げた作品で、オリジナリティのある作品はやっぱり『狭衣物語」が一番大きいでしょうかね。

この『狭衣物語』。ストーリーも何となく暗めですが、非常に良く出来ていました。
しかも作中の和歌が又素晴らしい。
こいつは、中世期くらいには『源氏物語』・『狭衣物語』と並び称される作品にまでなりました。

このように、影響力の強い作品、というのは定期的に出てきまして、その後の作品の方向性を或る程度縛ってしまいます。
その中で、やっぱりオリジナリティの強い影響力を持った作品が出てきて……というのが物語文学の大きな流れ。



■ノベルゲーム発生の環境

さて、こういう流れ、どっかで見たことはありませんでしょうか?
そう、すっかりそのままノベルゲーム/サウンドノベルを取り巻く作品状況に似ているのです。

やっと、ノベルゲームについて色々語る事が出来る時がきましたよ。
私は良く「ぼたんゆきテイスト」とか「ぼたんゆきタイプ」という事を良く言っています。
作品の大まかな流れが『ぼたんゆき』という作品に似ているものを、そう呼んでいるわけです。
ぼたんゆき』に関しては、まぁネタバレをしてしまうと、所謂「姉妹交換」というのが、最大の特徴となっています。

亡くなってしまった姉(もしくは妹)の代わりに、妹(或いは姉)が主人公(男性)の恋人になる。勿論、男はそれに違和感を感じつつも目の前にいる恋人が本当は妹(或いは姉)である事に気がつかない。だけれども最終的にそれが判明してしまい、その時主人公は亡くなってしまった姉(或いは妹)に対してその想いを断ち切り、目の前にいる女の子への気持ちに気付く。

と、こんな感じのストーリーラインの作品が私の言う所の「ぼたんゆきテイスト」な作品だったりします。
皆さんも結構プレイしているんじゃないでしょうか??
こういうストーリーの源流として私は『ぼたんゆき』を捉えていて、それ故にの「ぼたんゆきテイスト」という発言なのでした。

こういう影響力の強い作品は、

「あれには敵わない」
「あれより良いものが出来るかも」
「あれなら、こっちの方がいい」
「あれみたいのを創りたい」

と、さまざまな「あれ」として一つの基準になりうるものです。
で、例えば「あれ以上のものを創りたい」という、読者が今度は制作者となり、また新しい一つの基準となる作品を創っていく……。
これはまさに『源氏物語』或いは『狭衣物語』を一つの「あれ」という基準として、新たな物語が生み出されていく状況に似ています。
ノベルゲームにも、こういう流れを見て取る事が可能なのではないかと思いますが、如何でしょう?


ここで、もう一度古典文学のお話にもどります。
『源氏物語』『狭衣物語』以降、物語の製作は一般的に停滞した、と捉えられています。
というのは、鎌倉時代以降も物語作品は創られ続けているのですが、それらの多くは『源氏物語』『狭衣物語』の安直な焼き直し、というそういうレッテルが貼られているのです。
だけれども、こうした物語群(ここでは、鎌倉時代物語と呼んでおきましょう)は、一つ一つ読んでみるととても面白いし、その中でも影響力が強く、その後の鎌倉時代物語を牽引していくような、作品が内部で生まれていたりもするのです。

以前、このブログで二回ほど取り上げた『我身にたどる姫君』というのは、その最末期の物語作品ですね。物語が爛熟して最後の最後、熟成しきって腐ってしまう一歩手前、そういう時期の作品です。
けれども、そこで物語の歴史が終わってしまうかと言えば、そうじゃない。
古典の物語は今度は「御伽草子」と装いも新たに、少しファンタジックな作品が主流となっていきます。そして、こうした物語と、その製作過程は現代のライトノベルまで、続いていくのです。


というわけで、第三回目の講義はこれにて終了。
結局、第四回くらいまでやることになりそうですね……。
まぁ、好き放題書いているので、或る程度長くなっちゃうかな?という危惧はあったのですが……。

では、次の講義でお会いしましょう!

by s-kuzumi | 2008-04-19 20:42 | 日々之雑記